剣豪俳優として知られた故・近衛十四郎の長男で、数々の豪快伝説を残した「昭和のスター」松方弘樹が、仁科明子と3年間の不貞交際の末、1979年に結婚した。
当時、松方には15年間連れ添った夫人と、その間に生まれた子供が3人いた。そのため、仁科の両親は大反対。実家に戻るよう勧める両親を前に「松方さんと別れて実家に帰れというなら、この薬を飲んで死にます」と叫び、すったもんだの末、松方の離婚が成立。
「仁科による略奪愛」で、松方が前妻に支払った慰謝料3億円は、当時の芸能界史上最高額と言われた。
その後、2人は1男1女に恵まれたのだが、なにせ元来の女性好きで、さる男性誌には「800人くらいはいただいている」と女性遍歴をアケスケに語っていた松方だ。そう簡単に女好きの虫が収まるはずもなく、1987年秋には元アイドル歌手との間に隠し子がいることが発覚した。
同年10月19日に記者会見を開いた松方は、
「最初は内緒にしていたんです。でもそんなもん、すぐにバレまんがな」
と事実関係をあっさり認めた後、
「明子があんなに怒ったのを見たことがありません。泣いたりわめいたり…。でもやっぱり、あの子は賢い。最後には『わかったわ。しょうがないわね。ほんと、いい年をして情けないわ、で終わり。世界一の女房ですよ」
そう言って仁科を立てたものの、その代償として、
「すぐにパイプカットしろ、と怒られて…」
衝撃の「パイプカット指令」を告白して、集まった男性記者たちを苦笑いさせたのだった。
しかし、オシドリ夫婦と言われ2人に、あっけなく破局が訪れる。引き金は、仁科が38歳で子宮ガンに罹患したことだった。絶望する仁科に対し、松方も気遣いは見せるものの女グセは治らず。女優・山本万里子と親密になり、オーストラリア旅行へ。
ところが1998年11月4日、仁科からマスコミ各社に「離婚声明文」が送られたことで、帰国した7日深夜に急遽、記者会見を開くことになった松方。テレビカメラ13台、200人を超える報道陣を前に「青天の霹靂です」としながら、
「僕としては、共に白髪までいきたい。人間ですから完璧な人はいないわけで…。前回もず~っと謝ってお許し願えたわけで、これは犬も食わないという夫婦喧嘩ですから。明子と別れるという意思はありません」
汗をぬぐいながら、何度も「別れるつもりはない」と繰り返したのである。
しかし、この時ばかりは仁科の意思が強かった。2人はこの年の12月に離婚。「亜季」と改名して記者会見を開いた仁科は、心情を吐露。
「女性にとって大切なところを喪失した孤独感に寄り添ってくれなかったことで、気持ちが離れてしまった」
略奪愛から19年。彼女の言葉には、もう女のトラブルに悩まされることはないであろう解放感と、寂しさが滲んでいた。
(山川敦司)
1962年生まれ。テレビ制作会社を経て「女性自身」記者に。その後「週刊女性」「女性セブン」記者を経てフリーランスに。芸能、事件、皇室等、これまで8000以上の記者会見を取材した。「東方神起の涙」「ユノの流儀」(共にイースト・プレス)「幸せのきずな」(リーブル出版)ほか、著書多数。