松方が「最後の役者」と呼ばれるのは、勝新太郎にも似た羽振りのよさだ。88年から付き人を務め、現在は東映・京都撮影所の演技センターに勤務する須賀章は、懐かしそうに振り返る。
「たとえ先方がスポンサー筋の実業家であっても、飲んだ相手には絶対に支払いをさせない。僕がオヤジの財布を預かっていて、必ず先に払いに行かないと機嫌が悪くなっていました」
現在は手放してしまったが、松方は京都に約1000坪もの広大な邸宅を持っていた。主演映画や正月の大型時代劇など節目の撮影が終われば、この豪邸が大宴会場になったと須賀は言う。
「庭が広いせいもあって、東映からバスを連ねて100人くらいが集まったと思います。屋台をいくつも呼んで、庭ではカニなどを焼いたり、それは豪華。儲かった金は右から左で、年間ン億円は使っていたんじゃないかと思いますね」
芸能界きっての酒豪でもあった。ヘネシーのボトルを何本も空け、同席する芸能人には「かけつけ3杯」といたずらっぽく笑い、意識を失わせることも少なくなかった。
そんな酒豪が鳴りを潜めたのは、90年代に入ってからと須賀は記憶する。
「舞台の連続公演をやっていた時に、疲れがいつになくひどい時があった。医者に診てもらったら、まず『血液がドロドロです』と言われ、さらに『このままだとヤバいですよ』とも。オヤジも、酒があまりうまくないと感じていたこともあって、そこから控えるようになりましたね」
松方自身、体重が増えて役者としてのキレを失ったとの自省もあり、禁酒に踏み切る。また、85年にスタートした「天才・たけしの元気が出るテレビ!!」(日本テレビ)でバラエティに初進出し、女子高生からも「松方部長!」と黄色い声援が飛ぶ人気を獲得。これに中島貞夫は、苦言を呈したことがある。
「テレビのほうが圧倒的に観ている人は多いから、弘樹ちゃんに『あんまり出るなよ』と言った。俺が最後に組んだ『首領を殺った男』でも、バラエティのイメージが強すぎて“修羅に生きる男”を描きにくかった」
修羅、という言葉で思い出すのは、松方自身が「これで一本立ちした」と生涯の傑作に推す「修羅の群れ」(84年、東映)である。稲川会初代会長・稲川聖城をモデルに、週刊アサヒ芸能に連載された同名小説を映画化。鶴田浩二や菅原文太を脇に回しての主演ゆえに、喜びもひとしおだった。
この作品まで付き人だった勝野賢三は、ラストシーンを観て、師の晴れ舞台であると感じ取った。
「鎌倉霊園で墓参りをして、そこから主題歌が流れるクライマックス。健さんの『唐獅子牡丹』もそうですが、壮大な歌が流れることで主演者になったんだなと感動しました」
そんな松方が入院してから半年以上が経過した。所属する「夢グループ」によれば、病状は「現状維持のまま」であるという。持ち前の辛抱強さで、再び「フンドシを締め直す日」の訪れを願いたい。