出資率引き上げの説得材料
孫は、1996年(平成8年)2月初め、カリフォルニアのペブルビーチで行われたペブルビーチ・AT&Aナショナル・プロアマというゴルフ大会に参加した。ペブルビーチは、シリコンバレーから車で1時間半くらいしか離れていない。
孫は、試合の真っ最中にジェリー・ヤン、デビッド・ファイロ、ヤフーにかつて出資した投資家らヤフー関係者を孫が宿泊しているホテルの部屋に呼んだ。
孫は言った。
「ヤフーへの出資率を、5%から35%にまで引き上げてほしい。筆頭株主になって本格的にヤフーを応援したい。日本の事業だけでなく、ヤフーのアメリカでの事業をもっと伸ばしたい。ヤフーをインターネットの大スターにしたいんです」
が、出資者は顔をしかめた。
「そんなことを言うけど、株式公開があと2週間に迫っている。今さら間に合わない」
「いや、そんなことはないはずだ。例外的な処理方法がある」
孫は、あらかじめ調べさせておいた方法を打ち明けた。
「公開入札価格の値段で公開して株式を市場にある程度出す。そのうち全体の35%にあたる株式は第三者割当増資という形でソフトバンクを指名して、入札価格と同じ値段で売ることができるはずだ。その代わり業務提携という形をとらないといけない。業務提携が前提ならできないことはない」
相手側は言った。
「言っていることはわかるけど、そんなにパーセンテージをもたせられない」
ソフトバンクが35%も持てば、子会社のようなものになってしまうのではないかと恐れていた。自分たちの自由度はどうなるか。そのような心配をする者もいた。
「アゴで使われるのは嫌だから、自分たちでベンチャーカンパニーとしてやっているんだ。そういうことをいったいどう考えているのか。ソフトバンクは中立だと言っても、ソフトバンクがこの業界で出版をやっているジフ・デービスと競合している会社もあるじゃないか。メディアのその分野で見れば中立とは言えないのではないか」
「日本とアメリカの考え方が違う。日本式をわれわれに押しつけられると、アメリカでは伸びないかもしれない。それを押しつけるつもりがあるのかないのか」
孫は、翌日再びヤフーのヤンらに来てもらった。
「昨日話したような条件でいこう」
公開まで1週間と迫っていたが、公開のための印刷をすべてやり直し、公開入札に踏み切った。
その投資した100億円は、公開して一晩でなんと3倍もの価値にまで跳ね上がった。含み資産が一気に200億円にもふくれあがったのだった。
孫は、ヤフーに出資が決まったあとに思った。
〈ジフ・デービスに出資していなければ、ヤフーを見つけ出していたとしても説得ができなかった〉
ヤフーが出資を受け入れたのは、ソフトバンクが、ジフ・デービスを通じてヤフーを応援できる態勢にあったからである。ジフ・デービスでヤフーの専門誌を作ったり、ジフのテレビ局でヤフーと連動させる。技術情報をヤフーに流すこともできる。コムデックスでアピールする。それが説得材料として役に立った。
応援できる態勢にない日本の商社、日本のメーカーが、出資したいと申し込んだとしても、即刻断わられたに違いない。