孫は、11月26日、監督の王貞治と会った。幼いころから野球好きだった孫は、当然、世界のホームラン王である王貞治に憧れを抱いていた。買収したあとも、王に監督を続けてほしいと要請した。
王も、それまで孫とは面識はなかったが、孫正義という凄い経営者がいるということは認識していた。
笠井から見ると、生きている世界は異なっていても、たがいに同じ勝負師としての嗅覚が、相手の匂いを嗅ぎ取ったに違いない。
二人は、はじめのうちから息が合った。
その年、プロ野球パシフィック・リーグでは、球団の再編成が行われた。オリックス・ブルーウェーブと近鉄バファローズが合併し、オリックス・バファローズとなった。その一方で、オリックスの球団枠に入らなかったオリックスと近鉄の選手を中心として、東北楽天イーグルスが結成された。
そのこともあって、ダイエーホークスを買収したソフトバンクとしても、必ずしも南海ホークス時代からの「ホークス」の球団名を継承しない選択肢もあった。しかし、孫としては、まったく名前を変えてしまうことで、「ホークス」の名に愛着を持つプロ野球ファンを敵に回したくはなかった。同じ「ホークス」でも「ドリームホークス」のように変更を加えたほうが、ファンに夢を与えられるのではないか、といった意見も出た。結論は、ぎりぎりまで先送りになった。
球団名は、発表予定日の1週間前になっても決まらなかった。
最終的には、やはり「ホークス」がもっとも適切だろうとの結論に達した。
孫は、記者会見で、事業の見通しについての質問に、強気にこう答えた。「現在の球団売上高は年間170億円で年間10億円程度の赤字だが、売り上げを1割上げれば、収支は均衡する。ただ、そのレベルには終わらせず、経費を増やして世界一を目指すチームにしたい。インターネットを活用することによって、2割、3割の売り上げ増を目指すのは、そんなにむちゃなターゲットではない。10億、20億、あるいは30億という程度の差(赤字)は十分まかなえる」
新球団名は、福岡ソフトバンクホークス、球団のロゴマークは、黄色い二本線と黒字のSoftBankを合わせたソフトバンクの新しいロゴマークに、従来のキャラクター、ハリーホークに一部手を加えて組み合わせた。
新球団の初代監督として会見にのぞんだ王貞治は、孫社長とがっちり握手を交わした。
「今日という日を、本当に首を長くして待っていた。うれしいというより正直、ほっとした」
と安堵の表情を見せた。
ダイエー球団では身売り話が繰り返されてきただけに、「これで胸を張って歩ける」と野球に専念できることを素直に喜び、「来年は必ず日本一という目標を達成したい」と誓った。
「敵を作る雰囲気がない…」
孫によると、王貞治は、まさに人格者というにふさわしい。
王は、勝負に徹してきた勝負師である。しかし、前向きに勝負をして敗れても、「王さんなら仕方ない」と敗者に思わせる。それだけの包容力と、相手への気配りがある。
孫が小学生だった頃、王は、よく敬遠されていた。孫は、子供心に敬遠したバッテリーを憎んだ。
〈あのピッチャーやキャッチャーは、堂々と勝負せずにひきょうだ〉
ホームラン王や三冠王のタイトルがかかっている終盤戦となると、一打席一打席の重みが違ってくる。内心では、「記録のかかった打席をどうしてくれるんだ」と言いたいこともあったに違いない。それでも王は、何事もなかったかのように黙々と一塁に向かった。
日々ビジネスで勝負を賭けている孫は、勝負への執着心が前面に出すぎることもある。そのあまり、「あいつだけは許せない」と孫を敵視する相手も作ってしまう。敬遠されても淡々としていた王の凄さが、今になってわかる。だからこそ、孫自身、王と会った夜は、自分のこれまでの姿勢を振り返り、反省させられることがあるという。
04年11月26日、王貞治は、オーナーであるソフトバンク社長の孫正義と初めて会った日のことをこう述懐する。
王は、それまでも、ことあるごとに話題となる孫のことは知っていた。
王は孫から、アメリカ企業との買収交渉について話を聞いていたという。交渉の場では、最初はどちらも、自分の欲しいものを「100%もらいたい」と主張することから始まる。それを譲り合い、50対50、55対45と詰めていく。
孫によると、日本人は、交渉力がないという。相手が少しでも強く押していくと、「もう30でいいや」と最初から譲ってしまうという。
その話に、王は納得した。
それとともに、小柄な体を張って海外の厳しいビジネス世界の修羅場を生き抜いてきた孫をすばらしいと思った。
その一方で、意外な思いも抱いた。
〈ずいぶん得な人だな。敵を作る雰囲気がまったくない〉
若い時から起業して厳しい世界で揉まれてきた経営者には、癖があったり、人間関係でも反りが合わない人物もいたりする。敵を作りやすい大物もいる。
しかし、孫は、にこやかで、王がこれまで受けたことのないような細やかな心配りもしてくれる。食事の時でも、「お好きなものをご自由に」と勧めてくれる。それは、王が年輩者なのでそうしてくれているのかなと思っていたが、そうではない。誰に対しても、同じように心を配る。
ビジネスで成功している、していないにかかわらず、人間的な魅力に溢れていた。