その事件が起きたのは、あの松井秀喜の甲子園5打席連続敬遠からちょうど20年後の12年の夏のこと。舞台は甲子園出場をかけた第94回夏の選手権高知県予選決勝・明徳義塾対高知の一戦だった。この大一番で、甲子園の名将・明徳義塾の馬淵史郎監督が松井秀喜同様に恐れた対戦相手のバッターが高知の4番打者、法兼駿内野手(亜細亜大⇒パナソニック)その人。奇しくもゴジラ松井と同じ左バッターだった。
実はこの伏線はこの前年の11年秋にさかのぼる。法兼は4番・主将としてチームを引っ張り、明徳義塾は春の選抜出場がかかる四国大会に駒を進めていた。そして勝てば選抜出場がほぼ確定という準決勝で対戦したのが明徳義塾である。この試合は序盤から点の取り合いとなり、8回を終わって4‐4と互角の勝負が展開されていた。9回表にその均衡を破る決勝3ランを放ったのが法兼だったのだ。
宿敵を降し選抜への切符を手に入れた高知ナインだったが、一敗地にまみれた明徳義塾、特にチームを率いる馬淵監督がこれで法兼封じに本気になった。
その夏の甲子園切符をかけた決勝戦。明徳義塾バッテリーの法兼への攻めは徹底していた。終始アウトコースギリギリを突く組み立てで第1打席はフルカウントからの四球。第2打席はカウント2‐1からレフトフライに倒れたが、その後の第3、第4打席目はいずれもストレートの四球。試合は1‐1の同点で延長戦に突入していたが、10回表に回ってきた第5打席では2アウト二塁という状況もあって、捕手が立ち上がって敬遠。さらに12回表では2アウト一塁でも敬遠された。
この予選、法兼は2本塁打を放つなど絶好調だったが、最後は振らせてもらえなかった。結局、6打席で5四球。そして試合はその裏に決着がついた。1‐2でのサヨナラ負け。当然スタンドからは「またか!」「勝負しろ!」などの野次が響いたが、いちばん悔しいはずの法兼本人は当時、試合終了後の取材でこう語っていた。
「悔しい思いはありますけど、最後に最高の試合ができた。こういう終わり方でよかった」
名将が勝負を避けたもう一人のスラッガーは現在、社会人野球のパナソニックで野球を続け、プロ入りを目指している。
(高校野球評論家・上杉純也)