「テレビ局が変わってしまった」
「紳助引退で何かが変わったのかって? そうじゃない。テレビ局がリスクを取らないように変わったから‥‥。早かれ遅かれ(紳助は)引退させられたのだろうし、復帰もかなわないままでいる。例えば、『朝生』で暴力団排除条例(以下暴排)の問題点についてやったことがありますが、他局はどこもやらない。でもね、こんなこともあった。僕が『さんまのまんま』(関西テレビ系)に出た時に、さんまさんに向かって、『紳助は引退の必要はない』と言ったら、さんまさんが『僕もそのとおり』と言ってくれて、実際その場面が流れた。よく使ってくれたな、と思います」
と語るのは、紳助の盟友でもあるジャーナリストの田原総一朗氏だ。
2人の関係は、テレビ朝日の報道番組「サンデープロジェクト」(以下サンプロ)で、紳助が総合司会として番組の進行を担当し、キャスター役の田原氏が、政界のキーマンに切り込むという内容がウケ、90年4月の番組スタート時から、紳助が司会を降りる04年3月まで、約15年近くほぼ毎週顔を合わせていた仲だ。
しかも当時、一介の人気芸人だった紳助をキャスターに抜擢したのも、他ならぬ田原氏だった。いわば、紳助に芸人から「キャスター」という肩書を加え、テレビ界に確固たる礎を築かせた人物でもある。
田原氏が続ける。
「番組を始めるにあたってスタッフと司会を誰にしようかという話になって、私が『紳助さんはどうか?』と提案した。テレビを通じて、笑いのセンス、頭の回転、機転が利くあたりテレビのことをよくわかっているという印象だったので‥‥。スタッフ一同、『おもしろい』と賛成してくれた。最初は本人は、『硬い番組は‥‥』と固辞していたようだが、最終的には吉本がセッティングしてくれた」
だが、当時は紳助をイロモノ扱いする政治家も少なからずいたという。
「中曽根康弘が、(紳助との)同席はイヤだと言うんだ。お笑い芸人に偏見があったんでしょう。しかたないから別々の部屋で収録したんですが。中曽根とは、サンプロレギュラーだった京大の政治学者、故・高坂正堯さんを通じて2度ほどスタジオ収録を口説いたんですが、結局、実現しなかった」(田原氏)
90年代、日曜日の朝に殴り込みをかけた「サンプロ」は、田原氏の政治家への容赦ないトークと、紳助の芸人独特の毒を含んだ進行で視聴率も上昇していった。その結果、のちに「芸人キャスター」の先駆けとなる紳助のキャラクターをも定着させることとなった。
「(サンプロを)始めてみたら非常によかった。紳助さんは変に政治を知っていないから、人の話を素直に聞けた。本人もいろいろ勉強して政治のことがわかってくると変にセミプロみたいに語る人がいるが、彼の場合は最後まで視聴者の代表として、わからないことは素直にわからないと言う立場を貫いた。それがよかった。紳助さんはスタジオで政治について意見を聞かれるたびに、娘さんたちから『いつも心臓が止まる思いだと言われる』なんて言ってましたがね」(田原氏)
田原氏は、テレビ界における紳助の「プロデュース力」に誰よりも早く気づいたのだ。