持病はなかったと言われる大杉が「重度の腰痛持ちだった」と証言するのは、水道橋博士である。
「大杉さんとは13年、映画『BROTHER』についてインタビューしたのが初対面でした。その日、俺は立ち上がれないほどの腰痛で車イスに乗ってたんだけど、北野映画の常連・大杉さんはギックリ腰の常連で、インタビュー収録の合間、合間に話の腰を折って腰痛話に没頭したね」
「転形劇場」という劇団の役者時代の大杉は、会話をしない、瞬きもしない、腰をかがめて動く、という縛りのある舞台をやっている途中に突然、ギックリ腰になり、舞台上で一歩も動けなくなったことがあったという。
「だから、ありとあらゆる腰痛治療院に通っていて、その結果、たまたま乗ったタクシーの運転手に聞いた“タクシー運転手の駆け込み寺”と言われる治療院に行ったら、大杉さんの腰痛は一発で治ったというの。俺もその治療院に行ったけど、残念ながら俺の場合は治らなかった。腰痛は傷の深さも治癒への長さも千差万別でね。まあ、今後、腰痛が出るたび、大杉さんに思いをはせるだろうね」(前出・水道橋博士)
執念の腰痛克服は「300の顔を持つ男」とも評された役者魂に通じるようだ。
近年の有名人の訃報でも異例の愛され方を示す大杉だが、それは飾らない役者人生を反映している。世に知られる前にピンク映画の出演を数多くこなしたことは有名だが、初主演作「変態マル秘産婦人科」(80年、新東宝)で助監督を務めた俳優・飯島洋一氏が当時を語る。
「大杉漣は初主演ということもあって、芝居が硬かった。そこをピンク界の巨匠である渡辺護監督にネチネチとつつかれ、いつまでもカメラを回せなかった。半ばノイローゼみたくなってたよ」
やがて、主宰する劇団で培った演技力と肩肘張らない持ち味が認められ、ピンク映画の出演依頼が殺到。
「下元史朗と並んでピンクのエース級だったね。いいヤツだったから、皆が使いたがった。最後は『シン・ゴジラ』(16年、東宝)で総理大臣を、『アウトレイジ最終章』(17年、ワーナー・ブラザース映画/オフィス北野)で日本最大組織の組長を演じたのだから、大出世だったね」(前出・飯島氏)
ちなみに大杉は、ピンク映画を「下積み時代」と称されることを嫌ったと映画評論家・秋本鉄次氏が言う。
「僕は下積みだと思ってやっていない。下積みだと、暗くてつらくて、マイナスイメージしかない。世間的な脚光がなくても、それはすばらしい仕事、誇りを持ってやっていた仕事だ、と言っていましたね」
役者としての技量もまた、当時、活力のあったピンク映画で磨かれた。
「小市民からバリバリのヤクザまで、本当にやれない役がない。特に周防正行監督の『変態家族兄貴の嫁さん』(84年、新東宝)は小津安二郎へのオマージュなんだけど、大杉さんは笠智衆の役をやった。まだ30代なのに、それがすごく似合っていた。そういう落ち着いた枯れた役の一方で、痴漢やのぞきの役もこなす引き出しの多さが大杉さんの魅力」(秋本氏)
40代になった大杉は、すでにピンク映画からは卒業していたが、それでも、生活のために来る日も来る日もVシネ出演を重ねていた。亡くなる直前までドラマ共演した松重豊や遠藤憲一と同じく、仕事を断るという選択肢は存在しなかったのだ。