周囲の欲望と裏切りに翻弄されながらも、義に生きる。たとえ、命がけとなっても──。菅原文太が銀幕の中で演じたのは、こうした筋が通った男だった。それは私生活でも変わりなかった。女性に対しても、実に“一本気”な男だったのだ。
文太を一躍、スターダムに押し上げたのが、映画「仁義なき戦い」(73年、東映)だ。当然、芸能マスコミからも注目されるようになる。この時、文太は40歳。文子夫人とは結婚6年目で、すでに子供ももうけていた。妻子があることを隠していたわけではないが、女性週刊誌が家族と散歩する姿を激写したところ、文太は激怒した。東映本社にわびを入れに来た編集長に対して文太はこう言った。
「ペンの暴力でくるなら、こっちは本物の暴力でいく。カメラマンはともかく、取材を命じた編集長とデスクの2人をブン殴って、骨の1本や2本はヘシ折ってやりたい気分だ!」
ヤ○ザ映画のスターが家族を前にヤニ下がった姿を見せることは、文太にしてみればファンに申し訳ないという思いもあっただろう。そして、何より大事な家族を守りたい一心だったのではないか。
ベテラン芸能ジャーナリストはこう話す。
「芸能マスコミが菅原の周囲をウロチョロされては困る理由は他にもありました。当時の映画界では俳優が共演女優に手をつけるなんてことはザラにあった時代で、菅原も御多分に漏れずその手の噂があった。多くの実録極道映画は東映の京都撮影所で撮影されていたのですが、女優の池玲子が菅原の“京都妻”と言われていて、各社が証拠をつかもうとシノギを削っていたのです」
池は「日本初のポルノ女優」として、98センチのバストをさらし、男たちを釘づけにしていた。文太とも多数の作品で共演。「新仁義なき戦い」(74年、東映)や「県警対組織暴力」(75年、東映)では、文太の情婦役として濡れ場を演じた。その役柄どおりに、私生活でも‥‥。
しかし、当時を知る映画関係者はこう話すのだ。
「菅原の濡れ場は激しくてね。命のやり取りをする男を演じるわけだから、激しく女を求める演技をするのは当然なのだが、清純派女優は嫌がる。それで、いつも菅原はポルノ女優を指名してくる。『実録飛車角・狼どもの仁義』(74年、東映)で共演した中川梨絵もそうなら、『安藤組外伝・人斬り舎弟』(74年、東映)の片桐夕子も菅原の指名だった。片桐にいたっては、菅原の要望でカラミのシーンを増やしたほど。池に限らず、菅原はポルノ女優をかわいがった。だから、“ポルノ女優好き”なんて言われて、そんなところから池との話も出てきたのでは‥‥」
後年、文太は18歳の童貞喪失から遊郭でのヒモ生活など、過去のヤンチャを堂々と告白している。ポルノ女優との関係だって、みずから暴露してもおかしくはない。それに、女性にはモテないクチだったようで、72年にアサヒ芸能で4回にわたって、コラムを連載した文太はこう記している。
〈昔に比べりゃゼニもあるけど、変わらず安酒かっくらって、『さみしい‥‥』とつぶやき、女の子の歓心を買おうとするが、飲み様、口説き様が卑しいせいで、女にゃモテたことがない〉
芸能評論家の肥留間正明氏が言う。
「菅原がポルノ女優を共演相手に選んだのは『自分にピッタリだ』という思いがあったのでしょう。何かと健さんと比較されてきた菅原ですが、東映生え抜きの健さんが太陽なら、中途入社の菅原は月のような存在。俳優引退後に反戦、反原発を唱えたのもそうですが、常に『アウトサイダーでいたい』と考えていた。その異端児の矜持がゆえに、裸になる女優に感情移入していたのではないでしょうか」
そんな文太の女性観、恋愛観はいたってシンプルだった。コラムで文太はこう言い切っている。
〈『なんでオレは、こんなおかちめんこを好きになったんだろう。不思議でならねぇ』と思っても、結局はアレしだい。低俗でもなんでもなく、男女関係はこれに尽きる。お互いのものを好きあい、暮らせたら、こんな幸せなことはないでしょう〉
仕事のマネジメントも私生活も、文太は文子夫人に任せきりだった。そして、「浮気は一度もない」と公言していた。
異端児はただ1人、妻だけを愛し続け、この世から旅立ったのだ。