大会2日目で駒大苫小牧(北海道)と対戦する静岡。夏の甲子園では1926年第12回大会を制するなど、戦前から静岡県の高校野球界をリードしてきた名門だが、なぜか不思議なことに春の選抜はベスト4が最高で決勝戦進出すら、いまだ果たしていない。その静高がなし得ていない選抜制覇を達成した静岡県勢は全部で4チーム。その中には長らく定期戦を行うなど、県内では伝統的なライバル関係にある静岡商、通称“静商”も含まれている。
静商が春の選抜優勝を果たしたのは1952年の第24回大会。この時は2度目の出場で大会前は伏兵に見られていたが、チームは田所善治郎-阿井利治のバッテリー(ともに元・国鉄=現在の東京ヤクルトスワローズ)を中心に、好守好打の望月教治(元・ヤマハ発動機監督)、外野手の横山昌弘(元・中日)と西村省次(法大ー三電交通)らの好選手がひしめいていた。
初戦は函館西(北海道)とぶつかった。0‐0という緊迫した展開の中、静商は7回表に無死満塁のピンチをしのぎ、その裏にタイムリーで1点をもぎ取って1‐0で逃げ切った。静商が放ったヒットはわずか2安打ながら、犠打と走力を生かして得点。守ってもエース・田所が7安打を浴びながらも堅い守りで相手に得点を許さなかった。続く準々決勝の平安(現・竜谷大平安=京都)との一戦でも静商の試合巧者ぶりが光る。0‐0で迎えた7回裏にスクイズを3度試みて3度とも成功。しかもすべて内野安打となり3点をもぎ取った。これを田所が抜群のコントロールで平安打線をわずか4安打に抑え込み、3‐0で連続完封。
田所の投球は準決勝の八尾(大阪)戦でも冴えた。相手エースの木村保(元・南海)も剛速球を武器に対抗し、試合は6回を終わって0‐0の手に汗握る投手戦に。だが静商は7回表、田所みずからが二塁打で作ったチャンスに1番・橋本嘉史がタイムリーを放ち1点を先制。9回表にも1点を加え2‐0で逃げ切った。田所が奪った三振は8。許したヒットは5本。一方の静商打線が放ったヒットは4本のみだったが、有効に得点に生かした形となった。守備陣の堅い守りも光った。
決勝戦の相手は前年優勝校の鳴門(徳島)。この強敵を前に田所は一世一代のピッチングを見せる。3回までに対戦した10人の打者中6人から三振を奪ったのだ。田所の快投に静商打線も応え、1回裏と3回裏にソツのない攻めを見せ、得点。結局、田所は鳴門の渦潮打線を散発の6安打に抑え11三振を奪い、この日も完封。2‐0で鳴門の連覇を阻んだ静商が初優勝を飾ったのである。この大会で田所が成し遂げた4試合連続完封は春の選抜史上3人目となる快挙でもあった。
(高校野球評論家・上杉純也)=敬称略=