47都道府県のうち、春の選抜で最も優勝しているのは愛知県と大阪府。各10回ずつで並んでいる。そのうち愛知県の最初の優勝は1934年第11回大会での東邦商(現・東邦)。対する大阪府の最初の優勝はその3年後の1937年第14回大会で、これは春夏通じても大阪府勢の甲子園初制覇であった。そして、その快挙を成し遂げたのが古豪・浪華商(現・大体大浪商)である。
この年の浪商は村松長太郎(東京セネタース)と福居治男(法大)のバッテリーがチームの中心だった。初戦から和歌山商(現・県和歌山商)を7‐0、下関商(山口)を4‐0、徳島商を6‐1と撃破して決勝戦へ進出。野口二郎(元・阪急など)と松井勲のバッテリーに強打者の原田徳光(元・中日)を擁し、この大会の優勝候補最右翼とされていた中京商(現・中京大中京=愛知)との決戦となった。中京商の野口もここまでの3試合で失点わずかに1。投手戦は必至だった。結果、ソツのない攻めを見せた浪商が2回裏と4回裏に1点ずつを奪い、この2点を村松が守りきって2‐0で完封勝利。こうして紫紺の優勝旗が初めて淀川の風に翻ったのである。
浪華商は戦後にも1度、選抜を制覇している。1955年第27回大会。広島尚保(元・中日)と谷本隆路(早大)の強力投手陣2本柱に勝浦将元(元・大洋)-坂崎一彦(元・読売など)-山本八郎(元・近鉄など)という破壊力のあるクリーンナップが自慢で、高校野球史上、戦後最強チームの一つとされた。中でも坂崎はこの大会通算15打数9安打で打率6割、2本塁打。そのあまりの打棒から“坂崎大明神”と呼ばれたほどだった。
チームは初戦の立教(現・立教新座。当時は東京にあったが現在は埼玉へ移転)戦で先発の谷本からリリーフの広島へとつなぎ、春の選抜史上初の、そして現在でも唯一となる継投でのノーヒットノーランを達成。6‐0で勝利すると小倉(福岡)を3‐2、平安(現・竜谷大平安=京都)を17‐1、県尼崎(兵庫)を1‐0で降して決勝戦へ進出。上州の名将と言われた稲川東一郎監督率いる桐生(群馬)と対戦することとなった。そしてこの稲川監督は決戦前夜、初戦からその猛打で各校の投手陣を震え上がらせていた坂崎対策としてバッテリーにとんでもない指示を出すのである。「全打席敬遠せよ」。この指示通り、桐生のエース・今泉喜一郎(元・大洋)は坂崎を4回歩かせたが、2‐1とリードした6回裏1死一塁の場面で一度だけ勝負に出た。この一度のチャンスを坂崎は見逃さず、ライトスタンド中段へ運ぶ逆転2ランを放ったのである。この後、浪華商は9回表に同点に追いつかれるも、延長11回裏にスクイズでサヨナラ勝ち。2度目の選抜制覇を達成したのであった。
なお、こののち坂崎は読売巨人軍に入団、5番打者として長嶋茂雄・王貞治とクリーンナップを組み、あの有名な天覧試合でもホームランを放っている。
(高校野球評論家・上杉純也)=敬称略=