太平洋戦争で敗れ、全土が焦土と化した日本に、球児たちの白球の響きが戻ってきたのは1946年。敗戦のわずか1年後のことだった。この年に開催された第28回夏の選手権大会で戦後初の優勝校となったのが浪華商(現・大体大浪商=大阪)である。現在までに大阪府勢は夏の甲子園で史上最多の12回の優勝を果たしているが、その初代Vを成し遂げたのが、実はこの時の浪華商なのである。
“野火が枯れ草を焼き尽くすがごとき強さ”と称された浪華商の快進撃は剛球サウスポー・平古場昭二(慶大ー鐘紡)の手によってもたらされた。
初戦で対戦した和歌山中(現・桐蔭)から16三振を奪い11‐2と大勝すると、続く函館中(現・函館中部=北海道)を6‐0で完封。準決勝の東京高等師範付属中(現・筑波大附)戦では何と19奪三振を記録し、9‐1の完勝を収めた。そして迎えた決勝戦の相手は夏の選手権初代王者の名門・京都二中(現・鳥羽)。この大事な一戦で、平古場のしなるような左腕から放たれた速球とカーブの切れは冴えに冴えた。いきなりの6連続三振を奪ったのである。結局、2‐0の完封勝利。大阪府民悲願の夏の選手権初優勝がようやく成し遂げられたのである。
実はこの優勝にはこんな後日談がある。優勝の翌日に、大阪の梅田から優勝の御堂筋パレードを行ったのだが、スタートしてから2キロほど進んだ地点で当時、日本を占領していた米軍のMPによってストップさせられてしまったのだ。どうも深紅の大優勝旗が“赤旗”に見えてしまい、労働者のデモ行進と勘違いされてしまったのである。浪華商ナインは司令部に連行されてしまったというから、とんだ災難であった。
さて、この初優勝から15年後の61年第43回大会で浪華商から浪商へと校名変更していた同校は2度目の夏の甲子園制覇を果たすこととなる。その中心にいたのが“怪童”と言われた2年生エース・尾崎行雄(元・東映)である。その他にも大塚弥寿雄(元・東京)捕手や住友平(元・阪急)二塁手、大熊忠義(元・阪急)三塁手、高田繁(元・読売)外野手など、タレントぞろいのチームは大阪府予選で他校を圧倒し、やすやすと甲子園出場を決める。
その大会初戦の浜松商戦(静岡)では1‐0で尾崎が完封勝利。続く銚子商(千葉)にも2‐1で競り勝つと準々決勝の中京商(現・中京大中京=愛知)戦ではようやく打線が爆発して14‐0と大勝を収めた。
迎えた準決勝がこの時の浪商にとって大一番だった。というのも、この時対戦した法政二(神奈川)には前年夏もこの年の選抜も苦杯をなめていたからだ。勝った法政二はそのまま両大会を連覇。戦後史上最強チームと謳われていた。1年生からエースだった尾崎にとって法政二のエース・柴田勲(元・読売)はもはや因縁のライバル。どうしても3連敗は避けたいところだった。
試合は3たび、浪商不利の展開となった。8回を終わって0‐2。柴田の前に放ったヒットはわずか1本だった。しかし、もう負けられない浪商は土壇場9回表に1死満塁のチャンスをつかむと、ここで打者・尾崎が起死回生の同点タイムリーを放つ。さらに突入した延長戦でも11回表に尾崎の犠飛などで2点を勝ち越し。その裏の法政二の反撃を0に抑えた尾崎がついに因縁の対決に勝利したのである。
最後の決勝戦は尾崎の剛速球が冴え渡り、桐蔭(和歌山)相手に1‐0の完封勝ち。浪商は2度目の頂点に立った。そしてこの優勝を手土産に大会後、尾崎は高校を中退してわずか17歳でプロ入り。東映フライヤーズ(現・北海道日本ハム)入団後の実働6年間で100勝越えを達成することとなるのである。
(高校野球評論家・上杉純也)=敬称略=