米騒動が原因となって開会式直前に中止となった1918年の第4回大会。その翌年に開催された第5回大会は、開催前にはほとんどノーマークだった神戸一中(現・神戸)=兵庫=がスイスイと勝ち進んで優勝する展開となった。予選が始まるころにサードだった山口弘を急きょ、ピッチャーに転向させる事態にも見舞われたが、逆にこれでチームが団結し、士気が高まったのもチーム快進撃の要因となった。さらに県予選で本命視された関西学院中(現・関西学院)が途中敗退したことも追い風となっていた。神戸一中は甲陽中(現・甲陽学院)、神戸二中(現・兵庫)、神戸商といった強豪を撃破し、全国大会へと駒を進めたのである。
その本番の1回戦は和歌山中(現・桐蔭)に3‐1と逆転勝ち。2回戦の慶應普通部(現・慶應)=東京、現在は神奈川県へ移転=は3‐0、準決勝の盛岡中(現・盛岡第一)=岩手=に対しても8‐0と急造エースの山口が連続完封し、何と初出場で決勝戦に進出してしまったのだ。
決勝戦の相手は長野師範(現在の信州大学教育学部)。長野師範のエース・山崎は変化球を駆使する好投手だったが、連投のため疲労がたまっていた。その疲れを見抜いた神戸一中打線は2回裏に3安打し2点を先制。6回表には長野師範打線の長打攻勢で一度は同点に追いつかれたが、8回裏に神戸一中打線が山崎を一気に攻略。5点を奪うビッグイニングを作り、これが決勝点となった。粘る長野師範も最終回に2点を返すが、山口が踏ん張り、7‐4で優勝旗を手にしたのである。
この神戸一中、実は試合後に行われた閉会式で“ちょっとした事件”を起こしている。地元・兵庫県勢として初優勝を果たした偉業を讃え、同時にスタンドの大観衆へのサービスも兼ねてこの年から閉会式のトリを飾る場内一周の優勝行進が行われるようになったのだが、それを拒否したのである。その理由は神戸一中ナインいわく「我々は母校のために頑張ったのだ。見世物じゃない」と“文武両道”のバンカラ気風が横溢した時代を反映したものだった。もちろんこれは長い夏の選手権大会の歴史の中でも最初で最後のケースである。当時主将だった米田信朗はのちに「やはり若かったのですね」と、当時を振り返っている。ちなみに神戸一中はその後も何度か出場しているが、優勝はできなかったので、現在に至るまで一度も場内一周をしたことがない。
(高校野球評論家・上杉純也)=敬称略=