甲子園の優勝投手がその後に母校を率いて甲子園に出場し、優勝監督になる。これは、これまでの夏の選手権史上たった一例しかない偉業である。そんな偉業を達成した人物とは、千葉の古豪・習志野で活躍した石井好博だ。
1967年第49回大会にエース・石井を擁して夏2度目の出場を果たした習志野は、大会前の評価はさほど高くなかった。しかし、開会式直後の第1試合で堀越(東京)を3‐1で下し、勢いに乗った。仙台商(宮城)戦は6‐3、富山商戦では打線が20安打を放ち、16‐2と圧倒。何とベスト4にまで進出したのだ。
準決勝は名門・中京商(現・中京大中京=愛知)が相手。習志野は4回表に3番・池田和雄(慶大ー日本石油)の右越えのソロで先制すると、6回表には2死二、三塁から石井みずからが中前2点適時打を放ち、3‐0と試合を優位に進める。実はこの時、習志野はまだ創部10年目で歴史も浅かった。しかし、そんな新興校が、守っても甲子園常連の中京商を翻弄することとなる。牽制プレーである。それは一塁にいる時よりも、中京商の走者が得点圏の二塁に進んだ時に、より威力を発揮した。
サインプレーで結ばれたベンチ、バッテリー間、内野手の呼吸が絶妙で、試合巧者であるはずの古豪・中京商はこの習志野の牽制網に引っかかって4度もチャンスを潰してしまったのだ。結果、石井は9回裏に中京商の反撃にあい、2点を返されたものの後続を断ち、3‐2で勝利した。準決勝で甲子園の名門校を倒した習志野は、続く決勝戦も強豪・広陵(広島)が相手だったが、これを7‐1で一蹴。夏の選手権出場2回目にして、みごと全国の頂点に立ったのである。
この大会で優勝投手となった石井は翌年、早稲田大学へと進学。卒業即、習志野の監督に就任した。その3年目の75年第57回夏の選手権でふたたび全国制覇を成し遂げるのだ。
この年のチームの投打の中心がエースで主軸を打つ小川淳司。東京ヤクルトスワローズの現監督である。この小川が初戦の旭川竜谷(北北海道)戦こそ5失点し、8‐5の辛勝だったが、その後の3試合をすべて完封と怪腕ぶりを発揮する。足利学園(現・白鴎大足利=栃木)を2‐0、磐城(福島)を16‐0、広島商を4‐0と撃破し、夏2度目の決勝戦進出を果たしたのだ。特に磐城戦では計23安打、しかも全員が2安打以上を放つ史上初の“全員ダブル安打”を記録。小川は4安打4打点の大暴れだった。
迎えた決勝戦の新居浜商(愛媛)戦は、準決勝の広島商戦で肩に違和感を覚えていた小川が10安打を浴び、4失点。8回表も1死満塁のピンチを招いたが、これを何とかしのいだ。そして4‐4の同点で9回裏習志野の攻撃へ。すると2死ながら一、三塁のチャンスをつかむと6番の下山田清が右前安打で5‐4のサヨナラ勝ち。劇的な幕切れで習志野は8年ぶり2度目のVを、石井はエースとしても監督としても母校を優勝へと導くこととなったのである。なお、この年の習志野は5試合通算で67安打を放ち、チーム打率も当時の大会新記録となる3割9分をマークしていることを付記しておきたい。
(高校野球評論家・上杉純也)=敬称略=