今春の選抜準優勝ながら、今大会は近江(滋賀)の前に初戦敗退を喫した智弁和歌山。持ち前の打線の不発が敗因の一つに挙げられるが、それほど智弁和歌山といえば“強打”“猛打”のイメージが強い。
智弁和歌山=“打”というのが代名詞となったのは、何といっても1997年第79回夏の選手権での優勝からだろう。この時のチームは前年春に2年生ながら快速球を武器に春の選抜準優勝に貢献したエース・高塚信幸(元・大阪近鉄)が肩の故障で投げられず、投手陣は継投に頼るしかなかった。その投手力の弱さを打力でカバー。3番・中谷仁(元・東北楽天など)と5番・喜多隆志(元・千葉ロッテ)らの中軸を中心に打ちまくり、5試合で42得点、チーム打率は当時の最高記録となる4割6厘をマークし、同校史上初となる夏の甲子園制覇を達成したのである。
そして、その猛打をさらにスケールアップさせ、甲子園を席巻したのがその3年後。20世紀最後となる2000年の第82回夏の選手権のことだった。この年の智弁和歌山は、投手力はやや落ちるものの、春の選抜でも3番・武内晋一(東京ヤクルト)、4番・池辺啓二(慶大ーJX‐ENEOS)、5番・後藤仁、6番・山野純平らの中軸を中心とした自慢の打線が威力を発揮し、5試合で42得点。準優勝に輝いていた。当然、夏の甲子園でも優勝候補の筆頭である。そしてその強打が初戦から爆発。まず新発田農(新潟)を14‐4と圧倒すると、中京大中京(愛知)との2回戦も打線がつながり7回表の時点で7‐0とリード。その裏に一挙6点を奪われ1点差にまで追いつめられたが、逃げ切った。3回戦では2年生ながら名門の4番を任された今江敏晃(東北楽天。現在の登録名は今江年晶)を擁したPL学園(大阪)と対戦。1‐0とリードした4回表に池辺と山野がそれぞれ2ランを放ち、5‐0とリード。それが7回終了時には9‐7と詰め寄られるが、最終回に後藤のソロなどで2点を追加し、11‐7で振り切ったのだった。
そして智弁和歌山にとってこの大会、最も苦しかった準々決勝がやってくる。相手はこの春の選抜でも1‐0で辛勝した柳川(福岡)だった。試合は投手陣が打ち込まれ、7回を終わって6失点。そして自慢の打線も柳川のエース・香月良太(元・読売など)の前に2得点のみ。敗色濃厚だった。だが、迎えた8回裏、1死後から武内が右翼席に追撃弾となるソロを打ち込むと、ランナーを2人ためて山野が起死回生の同点3ランを放ったのだ。そしてそのまま延長戦へと突入。11回裏に後藤のサヨナラタイムリーで死闘に決着をつけたのである。
続く準決勝の光星学院(現・八戸学院光星=青森)戦も劣勢の終盤に打線が目覚め、7‐5で勝利。3年ぶり2度目の夏の甲子園決勝へと進んだのだった。
決勝戦の相手は東海大浦安(千葉)。この試合も7回を終わって5‐6とリードされていたが、8回表に打者10人攻撃で一挙5得点。9回にも1点を追加し、終わってみれば毎回の20安打。11‐6の圧勝で夏2度目の全国制覇を果たしたのである。同校のこの大会のチーム打率4割1分3厘は当時の最高記録。初戦から6試合連続2ケタ安打をマークし、1大会通算100安打&11本塁打は現在でも大会記録となっている。まさに空前の猛打で20世紀最後の夏を彩ったのだった。ちなみにラッキーゾーンがあった時代の甲子園球場に当てはめたら、智弁和歌山が放ったチーム本塁打11本は24本にもなっていたという。
(高校野球評論家・上杉純也)=敬称略=