跡目相続を巡って、肉親同士が血で血を洗う権力闘争を繰り広げるのは、武家社会のならいだろう。鎌倉幕府もその例外ではない。
鎌倉幕府の幻の3代将軍・源一幡(いちまん)は、わずか6歳で悲劇の最期を迎えていた。
鎌倉幕府の源氏将軍は初代頼朝、2代頼家、そして3代実朝で途絶えている。その後は摂関将軍、親王将軍と続いていく。頼朝と母・北条政子の嫡男(頼朝の子としては第3子で次男)として生まれた頼家は、あの徳川家光と同様に、生まれながらの将軍だった。
頼家が18歳の建久十年(1199年)1月13日に、頼朝が死亡。同26日に家督を相続し、第2代の鎌倉殿となる。建仁二年(1202年)、征夷大将軍となったが、これが悲劇の始まりだった。乳母の実家で、自らの後ろ盾となっていた比企一族と母・政子の実家・北条一族が、権力の座を巡って対立構造を深めていったからである。
それでも頼家が健康なうちは、なんとか安定を保っていた。ところが、頼家が建仁三年(1203年)の7月に急病となり、一時、危篤状態に陥ったことで、事態が急変する。
頼家は嫡男である一幡に、家督を全て相続させようと考えていた。
ところがこれに反発したのが、北条一族だった。もし一幡が家督を継いで3代征夷大将軍の座に就けば、外祖父である比企能員ら比企一族の発言力は、北条一族をしのぐことになる。そこで北条一族は、頼家の弟である千幡(後の実朝)を将軍に立てることを画策。
都に使者を送っただけではない。比企能員を殺害し、さらに大軍を送って、一幡とその母で能員の娘・若狭局の住む屋敷を襲撃したという。
若狭局は当時6歳になる一幡とともに、逃げ延びた。だが一幡はその後、NHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」の主人公・北条義時の郎党に捕らえられ、刺し殺されたという。その墓所は現在も分かっていない。
ただ、比企能員の屋敷跡に建てられた鎌倉・妙本寺に、一幡が最期に着ていた菊花の模様を染めた小袖を祭った「一幡の振袖塚」があるのみである(写真)。
本来なら、父と同様に生まれながらの将軍になるはずだっただけに、あまりにも悲しい結末だろう。
また、追放によって将軍職を実弟・実朝に奪われた頼家も、伊豆の修善寺に押し込められ、その後、北条氏によって殺害された。北条一族と比企一族の権力闘争は、北条一族の圧勝に終わったのである。
(道嶋慶)