5月29日、東海大学系列校野球部総監督・原貢さん(享年79)が逝去した。言わずと知れた、巨人・原辰徳監督(55)の実父である。「父子鷹」として名をはせた父と息子だったが、その裏側では複雑な感情が渦巻いていたという。
7月14日、原貢さんの「お別れの会」が、東京ドームホテルで開かれることになった。今や巨人のエースとなった、実孫の菅野智之(24)をはじめ、日本球界から数多くの愛弟子たちが集まって故人との別れを偲ぶことになりそうだ。
原監督は施主を務めるが、さまざまな“思い”が込み上げてくるのは間違いない。
偉大なる父であり、そして厳格な指導者。原監督にとって貢さんは、そんな二面性を持った人物であった。「もし親父がいなかったら、今の自分はない」と言い切ったこともあるほどだ。
原監督が東海大相模高校野球部に所属していた74~76年、チームの監督を務めていたのが父の貢氏である。当時は各メディアによって「父子鷹」として取り上げられて大きな話題を呼んだが、実情はそんな美談仕立てだけでは語り尽くせないもので、正常な父と子の関係などまったく存在しなかった。原監督は文字どおりの“地獄絵図”でしかなかった環境に身を置いていたというのだ。
実は数年前、もちろん貢さんの生前の話だが、原監督が唐突に、ある親しいプロ野球関係者だけに、口外しない約束で実父への思いを吐露したことがあった。以下は当時、原監督が口にした回想録である。
「そりゃあ、もうあの時の俺は生きるか死ぬかよ。チームメイトの前で父親にバッコン、バッコンと拳骨で殴られるんだからね。この人は本当に俺の親父なんだろうかと悩んだこともしょっちゅうあったよ」
このように振り返ったのも決してオーバーではない。親子だからといって甘やかす姿勢を見せてしまっては他のチームメイトに示しがつかないと考え、貢さんは息子にあえて厳しく接する覚悟を固めていた。時には余りに激しい殴打によって悶絶する我が子の顔をさらにスパイクで踏みつけたこともあったそうだ。
「実際、ツラすぎて自分の心に限界が来てしまって、『あのクソ親父、殺してやろうか』と思ってしまった時もあった。もちろん、そんなことなんてできるわけがなかったんだけれどね」
そのツラさを表現するのに、回想当時に台頭してきた山口鉄也(30)の名前をあげて、こう続けた。
「山口のことは認めてるよ。認めてるんだけど、今、あいつに同じことをやったら、あいつ、死んじゃうよ!」
実父から与えられる、それほどまでの地獄に自分は耐え続けたというのだ。
一時は殺意まで覚えかけた父親にふと愛情を感じるのは、オフシーズンの毎年末に寮生活を離れて実家へ一時帰宅した時であった。
「家に戻ってくると親父は野球の話を一切しないんだ。食卓で一緒に座ると『おい、これも食べろよ』と言って笑いながら、目の前に並んだおかずを勧めてくれる。この人はジキルとハイドなんじゃないのかなと首をかしげたこともあったけど、最後はこう思ったよね。ああ、やっぱり俺のことをいちばん思ってくれる大切な親父なんだなってさ」
鬼のような厳しさを貫く一方、時に不器用ながらかいま見せる父親としての優しさ。父親の独特の教育法によって心身ともに磨かれ、そしてたくましく成長していった。
高校1年生からレギュラーの座を獲得。夏の甲子園に3年連続で出場し、2年時の75年春のセンバツ大会ではチームを準優勝に導いて全国に“原フィーバー”を巻き起こした。そう、「原辰徳」の原点は高校時代に父・貢さんから、こうしてシゴかれまくった超スパルタ教育にあるのだ。
「(東海)大学でも親父とは(監督と選手として)一緒だったけど、その時はさすがに高校ほど厳しくはなかったね。でも高校時代の“免疫”があったから、どんな厳しい環境にも対応できる自信が知らず知らずのうちに身についていた。だからそのあと、巨人へ入団しても練習が厳しいなんて俺は全然感じなかったよ。あの地獄のような高校時代に比べれば、たとえプロの練習でも“屁の河童”って、いつも俺は思っていたからね」
体罰問題が何かとうるさく指摘されるようになった現代社会において、「原家の教育法」は、なかなか共感を得られないかもしれない。しかし愛憎の念が入り交じり、ある意味、ゆがんだ親子関係の中、それを乗り越えることによって稀代のスーパースター・原辰徳が誕生したのだ。
現在、セ・リーグ首位を走るチームの指揮官として、父の死を引きずっている様子はないという。貢さんにそんな姿を見せたくはないからだろう。