不振に苦しむ村上宗隆をスタメンで起用し続け、最後は大谷翔平を9回のマウンドに送り出した結果の、劇的なWBC優勝。準決勝メキシコ戦の逆転サヨナラ勝ちでは、山川穂高の代打起用も周東右京の代走も、栗山英樹監督の采配がピタリとハマッた。スポーツジャーナリストが言う。
「小中高の教員免許を持ち、学芸大学卒業後は高校野球指導者の道も考えていた、栗山監督らしい選手採用法でした。その原動力は『アンチ野村ID野球』。栗山監督は野村克也氏がヤクルト監督に就任した90年のオフに、29歳の若さで引退しました。原因は野村監督のイジメにあったと言っていい。野村監督は囲み取材でも『アイツが嫌い』と言ってのけ、記者がその理由を尋ねても、明快に答えることはありませんでした。栗山監督はストレスからメニエール病を悪化させ、右肘の故障もあって、引退を余儀なくされた」
栗山監督がテスト生としてヤクルトに入団した際に面倒を見ていた、片岡宏雄元ヤクルト編成部長は「栗山も古田敦也も笘篠賢治も、そして長嶋一茂も、ノムさんは大卒選手というだけで毛嫌いする」と嘆いていたという。
「嫌いというより、苦労人のノムさんにとって、大卒でキラキラしている栗山監督や一茂が苦手だったのでしょう。だから一茂の世話役を栗山監督に押しつけた。結果的に、ノムさんの対応や一茂の世話が、栗山監督の財産になりました。栗山監督は『自分のような個性的な選手が活躍する野球があってもいいのでは』という信念でやってきた。これが野村ID野球の後継者であれば、大谷の二刀流も認めないし、ヌートバーの起用もなかったでしょう」(ヤクルト球団関係者)
天国で観戦した野村氏は今、何を思うか──。