イギリス人考古学者ハワード・カーターが、伝説のファラオとして知られるツタンカーメンの王墓を発掘してから、今年で101年目。その生涯をレプリカの展示と高精細デジタル映像で追体験できる展覧会「体感型古代エジプト展 ツタンカーメンの青春」が、7月1日から角川武蔵野ミュージアム(埼玉県所沢市)が開かれている(11月20日まで)。
この展覧会には「黄金のマスク」をはじめ、玉座、王墓に収められていた約130点の副葬品などが精巧に再現され、プロジェクションマッピングを通して若きファラオの青春を追体験できる。
ツタンカーメンは「異端の王」として大衆から疎まれた父・アクエンアテンに代わり、紀元前1332年頃、わずか8歳か9歳という年齢で即位。19歳で亡くなったとされる、悲劇のファラオだ。
そんな国王の墓が、エジプトのルクソール近郊にある「王家の谷」で見つかったのは1922年のことだが、この歴史的偉業に携わった中心人物が、イギリス貴族のカーナボン伯爵と、考古学者カーターの2人だった。考古学研究家が解説する。
「1915年に2人は発掘を始めるも、5年間は全く成果を得られず、さすがにカーナボン伯爵の財産も底をつく寸前でした。そんな矢先、カーターが王墓に続く階段を発見し、2日後には王墓の入り口に到達したとされています」
ところがこの日を境に始まったのが、なんとも不吉な出来事の連続だった。至って元気だったカーナボン伯爵が翌1923年2月に突然、高熱で倒れて昏睡状態に。2カ月後の4月、手当ての甲斐もなく息を引き取ったのである。考古学研究家が続ける。
「カーナボンの死後、ほどなくしてカーターの助手2人が肋膜炎の悪化と循環器不全が原因で、相次いで死亡したのです。また、王墓を尋ねたカーナボンの友人で金融業者グールドも、その翌日に高熱で死亡。さらに実業家のジョエル・ウールも墓見学から戻る途中に、高熱を出して命を失ったことから、『ファラオの呪い』で殺された、との噂が広がったというわけです」
死者はこれだけにとどまらない。その後も、ツタンカーメンのX線撮影をした写真技師が衰弱死。検視を行った2人の医師も肺虚脱と心臓発作で他界したのち、1929年にはカーナボンの未亡人までが亡くなり、結果、墓の発掘以降、そこに携わった関係者が22人も命を落とす結果になったのである。
なんとも不吉な伝説として語り継がれることになったわけだが、その後の研究では、ミイラの表面や副葬品の土器の中から、腐敗した食べ物に残る真菌類が発見されたことで、細菌感染による死亡説が浮上。これが真実なのかは定かではないが…。
いや、実は本当に「ファラオの呪い」は存在していたのではないか。展覧会でそんな不思議な出来事に、思いをめぐらせてみるのもいいかもしれない。
(ジョン・ドゥ)