16年に出場したリオデジャネイロでは団体総合で4位に入賞、21年の東京では種目別ゆかで銅メダルを獲得と、日本女子体操界に数々の偉業を打ち立ててきた村上茉愛氏(27)。実はその裏には多くの挫折や葛藤があった。
─村上さんにとって、五輪はどんな場所でしたか。
人生をかけて目指した舞台なので、うれしいこともたくさんありましたし、後悔はないんですけど、一番は、やっぱり怖い舞台だなと。世界選手権でメダルを獲り続けても五輪では獲れないこともありますし。4年に一度だからこそ、かける思いも半端じゃなくて、プレッシャーもすごい。よく〝魔の舞台〟とも言われますけど、五輪でしか味わえない緊張感や、逆にゾーンに入れたりもするので、本当の自分を知ることができる場でもあるのかなと、2大会に出て思いましたね。
─リオと東京、印象に残ってるのはどちらですか。
どちらも強く印象に残ってます。もともとリオが開催される時には、すでに東京での開催が決まっていて、周りから「東京も目指すんですか?」って聞かれるたびに「いやぁ‥‥」みたいな感じで答えてたんですよ。
─東京はあまり出るつもりがなかった?
はい。高校から大学に進学する時も「体操を辞めてもいいかな」って、ちょっと思ったり、大学に入ってからも気持ちが前に向かず、中途半端だったというか。それで準備不足のままリオに出ることになって、団体では4位になって近年では結構すごい成績だったんですけど、個人としては思うような結果が出なくて。それが悔しくて、東京を目指すことにしました。
─ということは、リオで手応えがあった。
そうですね。やっぱり準備不足があって「こんな準備じゃダメだ」っていう焦りから最終的には不安になって、緊張して思うような演技ができなかったのが一番なので。もちろん、メダルは目標でしたけど「本気でメダルを獲ろう」というところまで覚悟を持てなかったんだと思います。
─本気でやれば、メダルに手が届くと。
五輪だからこそ出るミスって、なかなか原因が見つからないんですけど、リオで出た失敗は明らかに自分に理由があったので。大きな技やアクロバティックな技で転倒するとか、着地で動いてしまうっていうのは目で見て誰でもわかるミスだと思うんですけど、片足を軸に回転するターンの時にゆかに手をついてしまうって、ちょっとウッて力を入れれば回避できるんです。なのに、簡単に諦めてしまったというか「意地でも手をつかないぞ」っていう気持ちがあまりなかったんですね。それは日頃からちゃんと意識していれば出ないミスなので、東京を目指そうと思いました。
─その結果、団体総合5位、個人総合5位、そして種目別ゆかでは見事3位に輝いて銅メダルを獲得しました。
もう、夢がかなったのがうれしかったです。「うれしい」という言葉しか見つからないぐらい、うれしかったですね。
─最後の演技が終わった後、何度も拳を握りしめてガッツポーズをされていたのが印象的でした。あの瞬間「これは銅メダルだ」という感触はありましたか。
結構ありました(笑)。でも、自分の体操競技人生の中で、感覚的にも気持ち的にも一番よかったので、メダルとかは関係なく「これはいい演技だった」っていうガッツポーズでもありましたし、「これでメダルが獲れなくても、仕方がないよね』って本当に思えるぐらいいい演技だったので、そういった感情が出たんだと思います。
─今、メダルはどうされているんですか。
東京五輪が終わった後の10月に世界選手権の北九州大会があって、種目別ゆかで金メダル、平均台で銅メダルだったんですけど、それらのメダルと一緒に、テレビの横に作った棚に飾ってあります。最初は玄関に飾ろうと思ったんですけど、知らない人が来た時に、ちょっとそれは違うかなと思って(笑)。
─パリ五輪に出場する体操選手の皆さんにエールをお願いします!
東京五輪の時と一番違うのは、団体のメンバーが4人から5人になったこと。1人増えるだけでもすごく心の支えになるので、安心感を持って臨んでほしいですね。あと、今回の代表は全員が初出場なんですよ。だからこそ思い切ってできる部分もあると思うので、そうした強い気持ちで自分たちらしい演技をしてくれれば、自然といい結果につながるんじゃないかと思います。
村上茉愛(むらかみ・まい)1996年、神奈川県生まれ、東京育ち。母親の勧めで体操を始め、小学生時代は池谷幸雄氏が主宰する「池谷幸雄体操倶楽部」に所属。15年、日本体育大学に進学。同年、世界選手権代表に選ばれ、団体で5位に入賞し、16年のリオ五輪団体出場権の獲得に貢献した。21年の東京五輪では種目別ゆかで銅メダルを獲得し、日本女子体操界に57年ぶりのメダルをもたらした。