最後の銀幕スター、小林旭(86)が「小林旭回顧録 マイトガイは死なず」(文藝春秋)を上梓。コンプラ全盛の昨今では及びもつかない、強烈なエピソードを告白しているのである。
〈『声が小せえ』なんて言われてぶん殴られる。衣装をドブ川に捨てられたり、理不尽なことで土下座させられたり〉(同書から抜粋、以下同)
昭和の芸能界ではよく見られる光景ではあった。だが先輩役者による度重なる横暴に堪忍袋の緒が切れた旭は、とんでもない行動に出る。何と、父親が所有していた日本刀を手に、撮影所で待ち伏せしたのだ。
〈正面玄関で待ち構えていたが、待てど暮らせど憎っくき先輩は出てこない。(中略)守衛の人に『皆さん帰られましたよ』なんて言われて我に返ったが、危うく刃傷沙汰になるところだったよ〉
当時の撮影現場はリアルを追求するあまり、小道具で本物の拳銃が使われることもあった。
〈やっぱり本物は、発射した時の衝撃が違うんだ。空砲でも本物はそれなりにショックがある。(中略)地方に行くと警察の広報かなんかの人が茶封筒に拳銃を入れて持ってきてくれて、特別なロシア製の銃を使わせてもらったこともあるよ。『仁義なき戦い』で使ったのはおもちゃみたいな銃だけど、『渡り鳥』は〝本物〟を使ってたから銃撃シーンに迫力があった〉
そんな旭の体には文字通りの〝銃創〟の痕も残る。
〈現場に来ていたチンピラがいたずらで俺のポケットに拳銃を入れて、運悪く引き金に触った瞬間にパンッと実弾が吹っ飛んだ。二十二口径の小さな銃だけど、弾が右手の甲を貫通して、丸太ん棒で頭の後ろを弾き飛ばされたみたいに痛かった〉
どこを切り取っても、ヤバい話しか出てこないのがマイトガイたるゆえんだろう。また歌手としても成功した旭だが、苦い思い出もあるという。
86年の「日本レコード大賞」でのこと。同年、旭は阿久悠作詞の「熱き心に」を大ヒットさせていた。実は大賞の発表前、審査員を務めた俳優仲間の西村晃が、舞台裏で小林に大賞受賞を伝えていたのだが、
〈阿久さんと二人でその気になって舞台に上がると、大賞に選ばれたのは中森明菜だった。(中略)裏工作が行われ、審査以外の要因で結果が動いたわけだ〉
ダイナマイトが炸裂するように危険な暴露はさらに続く。
〈あの時のレコード大賞では俺の財布からも大金が出て行った。当時、俺のマネージャーをやっていた企画会社の社長が『すいません、これだけの金がかかるんです』と言うんだよ。(中略)運営側の人間に言われるがまま金を出し、あれこれ使わされるうちにあっという間に六千万円が消えてしまった〉
まさに波瀾万丈の人生。同著の関係者が語る。
「自身のスター人生を思い起こしながら、旭さんは話し出すと止まらなかったそうです。とにかく記憶が鮮明で、数限りない出演作で、どの作品にはどの俳優が出てどんな交流があったか、細かく覚えていたとか。ただ、よき思い出を懐古する一方で、仲間が次々に亡くなり、根底には『これだけやって俺には何も残っていないよ』という虚しさもある。そんな気持ちを伝えたいこともあったようです」
26年には「小林旭芸能生活70周年」を迎える。まだこれからも、我々の憧れるマイトガイであり続けてほしいものだ。