「小さな大打者」若松勉がその本領を発揮したのは、1977年6月12、13日、神宮球場でのヤクルト対広島12、13回戦だった。
2試合連続代打サヨナラ本塁打の離れ業を演じたのだった。
6月12日18時31分 観衆2万人
広 0 1 0 0 1 0 0 0 0 0=2
ヤ 2 0 0 0 0 0 0 0 0 1=3
6月13日18時30分 観衆1万3000人
広 0 5 0 0 0 0 1 0 0=6
ヤ 2 1 1 0 0 0 0 2 2=8
プロ7年目、30歳の左打者・若松は、6月6日の中日戦で右わき腹の肉離れを起こして戦列を離れていた。
「バットを振ると痛みが走る」
5日間の休場後、監督の広岡達朗には「代打なら出場できます」とベンチ入りを直訴していた。12日、さっそく出番が来た。
延長10回裏、マウンドには前年20勝を挙げているエース・池谷公二郎が立っていた。先頭打者・渡辺進の代打である。
勝負は初球で決まった。内角甘めにスライダーが入ってきた。強振すると、打球は9号弾となり右翼席に消えた。
「次のバッターにつなぐことだけを考えていた。ヒットを狙い、すごく短くバットを持った。うまくバットが出た」
ヤクルトは6連勝。若松はそれまで2本のサヨナラ本塁打を放っていたが、代打では初めてだった。
翌13日も試合はもつれた。9回表を終わって6対6だ。時間切れの3時間を分過ぎた9回裏1死一塁。広岡がまたもや渡辺進の代打に若松をコールした。
勝負は連日にわたって初球で決まった。松原明夫(後の福士敬章)の甘めの変化球を捉えた。わき腹の痛みを忘れていた。打球は右翼席へ吸い込まれた。10号弾で7連勝。
ヒーローは言った。
「こんなことって本当にあるのかね。信じられない」
2試合連続代打サヨナラ本塁打は、同じヤクルトの豊田泰光が68年8月24、25日の中日戦で記録している。
現時点でこの記録は豊田と若松の2人だけである。
若松は70年、電電北海道からドラフト3位でヤクルトに入団した。本人は公称168センチ(自称166センチ)の小柄な体格から、プロ選手としてやっていく自信がなかった。プロ入りには消極的だった。
しかし70年にヤクルトの監督に就任した、三原脩の娘婿でヘッドコーチ兼打撃コーチの中西太が若松の素質を高く評価し、プロ入りを勧めたのだった。
中西は若松をマンツーマンで育て上げた。71年から左翼手の定位置を獲得。同年オフに背番号を「57」から「1」に変更した。
翌72年には打率3割2分9厘、リーグ2位の20盗塁をマークし、首位打者を獲得。リーグを代表する外野手となった。
プロ通算19年間で2173安打を放ち、首位打者を2回獲得した。年間打率3割12回は歴代3位である。
4000打数以上を記録した選手の中で、通算打率3割1分9厘1毛8糸はレロン・リーの3割2分に次いで歴代2位だ。5000打数以上なら史上1位である。
若松は広角に打ち分ける打撃から、ヒットメーカーの印象が強い。だが一方で、並々ならぬパンチ力の持ち主だった。
通算本塁打は220本で歴代82位である。NPB史上200本塁打以上の選手は115人いるが、若松が最も小柄だ。
福本豊(阪急、現オリックス)も208本打っているが、公称身長は169センチだ。
中西はこう指導した。
「下半身を徹底的に鍛えろ。当てるだけの打撃はするな。小柄でも本塁打は打てる」
若松もアマチュア時代から当てるだけの打撃はせずに、練習では常にオーバーフェンスを狙うスイングを心がけてきた。師弟の息はピッタリ合った。
若松はフリー打撃で、同僚のチャーリー・マニエルと競うように打球をスタンドに放り込んでいた。マニエルは2度本塁打王を獲得している。
サヨナラ本塁打の数が誇りだ。若松は王貞治と並ぶ8本を記録している。
以下はサヨナラ本塁打数(通算本塁打数)の歴代4位までである。
1 清原和博 12(525)
2 野村克也 11(657)
3 中村紀洋 10(404)
4 王貞治 8(868)
4 若松勉 8(220)
通算本塁打数に占めるサヨナラの割合は高い。もちろん巡り合わせもあるが、計算上は27.5本に1本はサヨナラ本塁打を放っている。
以下6位の7本は豊田泰光、長嶋茂雄、藤井康雄、井口資仁、阿部慎之助である。
若松は81年に、日本タイとなる年間3本のサヨナラ本塁打を放った。これで世界の王に並んだ。
王は80年に現役を引退。若松は89年までプレーした。心中密かに「王越え」を狙ったが、実現しなかった。
「王さんの記録だけは破りたかった。何か1つでもONに勝ちたい。だったらサヨナラ本塁打‥‥あと1本でいいんだ。でも、力んでしまって‥‥打てませんでしたね」
若松は77年、2度目の首位打者に輝き、ヤクルト2位の原動力となった。翌78年、チームは球団創設29年目にしてリーグ制覇、そして日本一になった。
若松の引退後、背番号「1」は池山隆寛、岩村明憲、青木宣親、そして山田哲人とスーパースターたちに受け継がれた。
だが、いまだに「ミスタースワローズ」と呼ばれるのは若松である。
ヤクルト球団史上で選手・コーチ・監督としてリーグVと日本一を経験したただ1人の男である。
(敬称略)
猪狩雷太(いかり・らいた)スポーツライター。スポーツ紙のプロ野球担当記者、デスクなどを通して約40年、取材と執筆に携わる。野球界の裏側を描いた著書あり。