球界には「今だから話せること」が山のように存在する。そのひとつを明かしたのは、ベースボールマガジン社の代表取締役社長・池田哲雄氏だ。それは1979年のドラフト会議の、とんでもない裏話だった。
早稲田大学で華々しい成績を残した岡田彰布が、ドラフトの目玉に。当時、史上最多となる6球団(西武、ヤクルト、南海、阪神、阪急、近鉄)から1位指名を受け、抽選の結果、阪神が交渉権を獲得した。
この時、巨人は3位で大分商業高校の岡崎郁を指名。法政大学進学を口にしていたが、実家を訪れた長嶋茂雄監督の熱意に押されて、巨人入団を決意。のちに第58代4番打者となった。
野球解説者・大久保博元氏のYouTubeチャンネル〈デーブ大久保チャンネル〉で池田氏が振り返るには、
「これ、ウラがあってね。岡崎っていうのはね…岡田を1位指名で阪神がいったじゃないですか。競合するのわかってるからね、阪神から話が来てね、『岡崎くん、岡田が外れたら、キミを外れ1位でいくよ』って言われてたんですって。それで岡田が当たるわけですよ。そうしたら阪神のスカウトが(岡崎の)家に電話かけてきたんですって。『2位で指名していいか』って。『それはダメですよ。僕は法政に行かなきゃならない』って断ったら、1時間後に巨人が指名した。こういう話って、今だから言えるんですよ」
岡崎に断られた結果、阪神が2位指名で獲得した選手は誰か。福井工業大学から入社した電電北陸を、エースとして1979年の都市対抗への13年ぶり出場に導いた右腕・赤松一朗だ。1983年に1軍昇格して2試合に登板(勝敗つかず)したが、故障によってこの年限りで引退している。
仮に「阪神・岡崎」が誕生していたならば、掛布雅之、岡田と並ぶ活躍を、甲子園で見せていたかもしれない。
(所ひで/ユーチューブライター)