伝統の一戦、永遠の宿敵。阪神と巨人は関西、関東を代表する超人気球団としてしのぎを削り、球界をリードしてきた。そのトップに立って責任を負う重圧はいかほどのものだったのか。2度、3度と監督の座に就いた名指導者の人心掌握術をひもとく。
虎ファンが球団史を回顧する際、必ず出てくるのが、「バックスクリーン3連発」に象徴される85年のリーグ優勝、日本一である。当時の阪神は個々が「打ってナンボ、投げてナンボ」の個性派集団でもあった。それを「チームの勝利」という一つの目標に向かわせたのが、2度目の監督登板となった吉田義男だった。吉田監督は75年~77年、85年~87年、97年~98年と唯一、3度にわたって阪神の指揮を執っている。
80年代、主に中継ぎとして活躍した福間納が「監督・吉田」の心象を語る。
「1回目の監督時代は知りませんが、優しそうな人というのが第一印象でした。『負けたらやり返せ!』と、常日頃から言ってました」
そんな吉田イズムを体感したのは、85年5月の巨人戦だった。
「原(辰徳)に自分がサヨナラ本塁打を浴びたんです。その翌日の同カードで登板し、8回裏二死満塁の場面で再び原と対峙した時、吉田監督がマウンドにやって来ました」(福間)
マウンドに虎ナインが集まる。この年から正捕手に抜擢された木戸克彦、二塁手・岡田彰布、遊撃手・平田勝男、一塁手・バース、三塁手・掛布が福間を囲み、ゆっくりと歩を進める吉田監督に目を向けた。
「左投手対右打者。前日のこともありますし、自分ももちろん、皆が交代だと思っていました」(福間)
吉田監督は厳しい口調で福間にこう言い放った。
「なぜ、( マウンドを)降りようとするんや。逃げてどないすんねん。原に一生コンプレックスを持つことになるでぇ」
場の空気が一変し、ナインの闘争心にも火がついた。
「『よし、やってやる』と思いましたね。結果、ライトフライに抑えることができた。吉田監督は池田(親興)や工藤(一彦)、ゲイルの先発陣が試合序盤でノックアウトされると、ベンチに引き揚げてくると同時に『明日も行くでぇ。先発や』と指令を出しました」(福間)
吉田監督は後年、「肩に力が入りすぎていた」と第一次政権を反省したが、復帰までの7年間、西本幸雄(故人)とゴルフ場などで野球談議を交わし、財界人とも交流を深めた。業種を問わず興味深く聞いていたのは「人を動かすには」ということだった。だが、85年シーズンは全てが順風満帆とはいかなかった。
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