70年代の東映にとって、渡瀬がいかに貴重な役者であったか──。佐藤純彌監督は、まず「絶対にスタントマンを使わない」という姿勢を評価する。
「兄の渡哲也という存在があって、自分は違う道を進むというのが明確にあった。常に体ごとぶつかっていくし、大部屋の役者たちを大事にしたのも彼ならでは」
佐藤の監督作では「実録私設銀座警察」(73年)が強烈な印象を残す。渡瀬は復員兵の渡会役だが、やがてシャブ中毒になり、ゾンビのような形相で殺人マシーンと化す。
「あの役作りはすべて彼のアイデア。すごい迫力で、1カットですべて撮り終えたよ」
渡瀬が数々の映画賞を獲るようになってから組んだ「敦煌」(88年、東宝)でも、偉ぶらずに一歩下がったふるまいであることがうれしかった。
渡瀬の体を張る演技が高く評価されたのは、主演作「狂った野獣」(76年)である。バスジャックを題材にしたカーアクション物であるが、渡瀬はこの撮影のために、わずか1週間という信じられない早さで大型免許を取得。
さらに渡瀬は、吹き替えなしで「走るバイクの後部座席に立ち、並走するバスに窓から突入」という難易度の高いアクションも披露した。
だが、こうした姿勢は死と隣り合わせになるのもまた必然である。脚本家・高田宏治は「北陸代理戦争」(77年)という“いわくつきの1本”を語る。深作欣二監督にとって最後の実録作品となったが、それは渡瀬が転倒したジープの下敷きになり、生死の淵をさまよう大ケガをしたことと無縁ではない。
「この映画はもう終わりかと思ったよ。ヘタしたら渡瀬は死んでいたかもしれない。結局は伊吹吾郎を代役にあて、それまで撮っていた渡瀬の部分が使えないことから、脚本も大きく手直ししたんだ」
高田だけでなく、深作も責任を感じ、渡瀬の病室を見舞った。麻酔が効いて眠りにつき、目が覚めるたびに深作が枕もとにいた。
「こうなっちゃったから、しかたないよ」
むしろ、深作を何度も慰めたと筆者は渡瀬から聞いた。こうした気遣いと、反骨のエネルギーが深作や中島貞夫ら多くの監督を魅了した。高田が続ける。
「僕のシナリオだと『実録外伝 大阪電撃作戦』(76年)の渡瀬が光ったね。大阪・明友会事件を明友会側から描き、主演の松方弘樹に対し、筋を通すという部分で内部対立する渡瀬の立ち位置がいい。もちろん、車に引きずられるシーンも、相変わらずノースタントで演じていたよ」
高田は、主演の渡瀬もいいが、大きな敵にぶつかっていく脇役の渡瀬にこそ真骨頂が見られ、さらに魅力的だと言う。それは、東映そのもののエネルギーを象徴していたからだ。
現在、渡瀬は手術をせず、放射線治療や抗ガン剤で回復を目指すと報じられた。何度も死線を乗り越えた野獣の魂に、復活の日は必ず訪れるはずだ──。