伊藤は淳子、岩崎宏美とともに「阿久悠門下生」の位置づけとなる。百恵と阿久悠は最後まで縁がなく終わったが、この3人はデビューから長らく、作詞だけでなくトータルのプロデュースでも指示を受けた。
「僕からそれぞれのマネジャーに言っておくから」
阿久の一言で3人は同じ日に休みをもらい、伊東の別荘に招かれた。そこに置いてあった「平凡パンチ」を見て、淳子が「不潔よ!」と声を上げたのは有名な話である。
伊藤は親しかった淳子を今も「ジュンペイ」と呼ぶが、筋金入りのマジメさには何度も驚かされた。ハワイで「スタ誕」の収録が行われ、岩崎と2人で修学旅行生のようにホテルの各部屋をノックして回った時のこと──、
「欽ちゃんたちはトランプをしていて、ほかにはお酒を飲んでいるスタッフもいたけど、ジュンペイは自分のコンサートの打ち合わせを綿密にやっていました。宏美と顔を見合わせて『違うよねえ』と、思わず」
伊藤と城みちるの「アイドルどうしの交際」が発覚すると、淳子は伊藤の家に電話をかけ、その“説教”は2時間に及んだ。
「サッコ、私たちのいる意味って何? スタ誕からデビューして、ファンの人がたくさんいて‥‥」
伊藤は反論したが、今から思えば、それぞれの「性格の違い」であろう。江戸っ子気質の岩崎も「人を好きになって何が悪い!」という考えであり、どこか、個々の歌世界に反映されていたようだ。
また、多少の葛藤を超えてなお「スタ誕ファミリー」の結びつきは強固だったと伊藤は言う。
「別の番組であっても『スタ誕』の出身者は必ず1つに集まっちゃう。ほかの歌手の人たちが近寄れないくらい、絆は強かったですね」
女子高のようなにぎやかな輪の中で、いつも悠然とほほえんでいたのが百恵だった。やや距離は置いているが、少しも嫌味な感じがしなかった。
伊藤は一夜だけ、百恵と語り明かした日が忘れられない。北海道で「スタ誕」の収録があった夜──。
「ホテルの部屋で朝の5時まで話をして、百恵ちゃんは一睡もしないで東京にとんぼ返り。私が起きて新聞受けを見ると、そこには『サッコ、お疲れさま。一足先に帰るけど、これからもよろしくね。モモタロー』のメッセージ。自分は寝ていないのに気遣いがあって、人としても女性としても、私とは器が違うなって思いましたね」
朝までの会話で、百恵は三浦友和とのことも包み隠さずに明かした。伊藤は、間違いなく2人は結婚するだろうと思えた。何ひとつ疑いようがない“相性”が存在していた。
あの日から30年以上が経ち、伊藤は「スタ誕」のプロデューサー未亡人を中心とした同窓会に年に1度は参加する。伊藤も岩崎も未亡人も、いつの日か百恵や淳子が顔を出してくれないかと願ってやまない。