第1回ドラフト会議が開かれた1965年から、今年は記念すべき50年目を迎えた。リスト提出方式、逆指名、希望枠など度重なる制度変更とともに、数々の大騒動、事件も勃発。長いドラフトの歴史はすなわち、そうしたトラブル史とも言えるのだ。今だから明かせるコトの全真相を──。
ドラフト史上、最も衝撃度の高い出来事として、85年の「KK事件」をあげるプロ野球ファンは多いだろう。早稲田大学進学を公言し、プロ入りはないと思われた桑田真澄氏(46)と、巨人入団を熱望していた清原和博氏(47)。この年のドラフトは、甲子園でPL旋風を巻き起こした超大物新人の仲を無残に引き裂いた。巨人以外の6球団に1位指名された清原氏の交渉権を得たのは西武。対する桑田氏は、巨人がまんまと単独1位指名に成功し、清原氏の「涙の会見」を演出したのだった。
「報道陣は皆、巨人が清原を指名すると思っていた。同時に、桑田の指名は回避だと‥‥」
そう言って当時を回想するスポーツ紙デスクが、これまで明かされなかった驚愕の事実を打ち明けた。
「後日、巨人の関係者から聞いた話に驚きました。ドラフト前、桑田は推薦入学試験を受験するため、早大に出向きました。担当記者たちが正門前で見送ると、桑田は『受けてきます』と言って構内へと消えて行った。そして試験終了後に再び正門に現れた桑田は『(試験は)難しかったですよ』とコメントしている。これでマスコミも関係者も皆、本当に進学するつもりなんだと思いました」
ところが、そこには思いもよらないカラクリがあった。スポーツ紙デスクが続ける。
「正門をくぐった桑田は構内を通って裏門から出て、巨人が用意した車の中で待機していたというのです。そして試験終了の時刻を見計らって、再び正門に現れた。カゴ抜けのようなトリックにまんまとダマされました。巨人と桑田がこんなニセ受験シナリオを編み出したのは一本釣りしたかったから。清原は今もこの事実を知らないと思います」
巨人・王貞治監督(当時)は清原氏に対し、「キミは野手ではNO1の評価だ」と言って1位指名をほのめかし、本人もすっかりその気で待っていた。だがそれはあくまで「野手では」であり、「投手も含めた全体の」NO1評価だとは言っていない。そこにもトリックがあったのだ。そして、
「桑田は王さんからセーターをプレゼントされていました」(球団関係者)
というから、最初からすっかり仕組まれた大芝居だったことになる。
先に発売された回顧暴露本「ドラフト50年の物語」(竹書房)でインタビューに答えた堀内恒夫氏(66)=第1回ドラフトで巨人1位指名=もこの一件について、次のように明かしている。
〈巨人サイドは「堀内は巨人が1位で獲得する」という情報を流した。オレにも「巨人以外だったらプロに行かないと話せ」と。(中略)巨人のそういう手練手管は、ドラフトの第1回目からやってんのよ。桑田真澄のときもやったでしょ? 古い手を〉
同書では、「当事者」の清原氏も、この「密約説」について語っている。
〈指名会見前、学校内で「桑田は巨人が自分をドラフト1位指名することを知っていたんじゃないか」って噂が流れたんですよ。(中略)それ以降、あのドラフトの件については、桑田と同じユニフォームを着た9年間を含めて、桑田と一切話していません〉