いやはや、あの記者会見にはなんとも驚かされたものである。
2007年5月30日、世界的建築家として知られる黒川紀章氏が、参院選への出馬を正式に表明。都内で自身が率いる共生新党の立候補者発表を行った。ところが突然、「若尾文子が出ます。今のところ(自身を含め)3人が確定です」と、比例代表区で妻・若尾を擁立するとブチ上げたから大変だ。会見場に集まった報道陣から、大きなどよめきが起こったのである。
というのも、黒川氏はこの年の4月、東京都知事選に出馬。落選したものの、自ら立ち上げた共生新党の結党の際には、本人の承諾を得ないまま、発起人に小沢一郎氏や古舘伊知郎氏の名前を掲載し、大騒ぎになったことがあるからだ。
会見では報道陣から「本人の了解は得ているんですか」「今度は本当なんですか」といった質問が浴びせられたのだが、黒川氏いわく、
「(若尾の方から)『何か手伝うことはある? 副党首? 比例代表?』と聞いてくれましたので、『比例を頼む』と言いました」
なんと、若尾が手を差しのべる形で快諾してくれたのだと。それでも記者からは「間違いないんですね!」「本当に出馬と書いていいんですよね」と念を押す声が飛び交ったのである。
黒川夫妻は5月下旬に、福島市の飯坂温泉で一緒に湯につかりながら出馬について話し合ったというが、「扇千景さんのように議長になったらどうしよう」と心配する若尾に対し、黒川氏は「俺がいる。首相になっても俺が所信表明の原稿を書く」と熱く語り、口説いたのだとか。その後、若尾から送られてきたFAXにはこんな文面が綴られていた。
〈私はこれからの残りの人生を女優として舞台の仕事を中心に続けていきます。政治に関心はありませんでしたが、共生新党の政策は国民の考えを反映したものです。(中略)私が全国比例区に出ることによって政策により関心が高まれば幸いです〉
だが、結果はまたもや惨敗に終わった。そして同年10月12日、なんと黒川氏が心不全のため突然、この世を去ることに。2日後の10月14日、東京・港区にある梅窓院で行われた密葬に参列した女性に話を聞くと、
「若尾さんは『これで主人の肉体がなくなっちゃうのよね』とすごく寂しそうで…。心の中には黒川さんとの思い出が一杯詰まっているから、棺の中にはあえて思い出の品を入れなかったとお聞きしました」
芸術家としても成功を収め、同時に地位も名誉も手に入れた黒川氏。だが、やはり彼が手に入れた一番の財産は、1983年に熟年結婚し、20年以上連れ添った最愛の妻だったのである。
(山川敦司)
1962年生まれ。テレビ制作会社を経て「女性自身」記者に。その後「週刊女性」「女性セブン」記者を経てフリーランスに。芸能、事件、皇室等、これまで8000以上の記者会見を取材した。「東方神起の涙」「ユノの流儀」(共にイースト・プレス)「幸せのきずな」(リーブル出版)ほか、著書多数。