名越 本にある「興福寺国宝館」での廃仏毀釈の件は驚きでした。
西山 奈良では廃仏毀釈は起きていません。
名越 興福寺の五重塔も売りに出されたと聞いたことがあります。あれも廃仏毀釈の影響ではないのですね。
西山 明治の初め、興福寺のお坊さんが春日大社へ移って神官になってしまったため、興福寺はお坊さんがいない無住の寺になりました。無住の寺は公共の目的に使うという法律があったため、中金堂は役所に転用されましたが、五重塔は使い勝手が悪いですよ。使えないものは競売にかけることになっていました。だから五重塔だけではなく、他の建物も競売にかけられました。でも、そこに先見の明がある人がいて、これをこのまま残して観光拠点にしようということになり、興福寺の旧境内を「奈良公園」と命名しました。お坊さんがいればこんなことにはならなかった。これは、廃仏毀釈ではありません。
名越 そのこと以外にも、本書を読んで、奈良について自分が誤解していることが多いことや、知らないことがたくさんあるとわかりました。例えば、元々大仏の建設予定地は奈良ではなかったそうですね。
西山 聖武天皇は近江の紫香楽(現在の信楽)に大仏を造り始めました。その頃、たまたま地震が相次ぎ、都に帰りたい人々の妨害もあって、聖武天皇は奈良に戻り、大仏は奈良に造られることになりました。
名越 正倉院の宝物はかつて貸し出しをしていたという話。借りていたのは天皇など特別な人だけのようですが、中には借りたまま返ってこない物もあるというエピソードも興味深かったです。
西山 どうしても返したくない人が、借りた物とは別物を返した例もあります。返さないことに比べれば、良心的と言えますね(笑)。
名越 この本で興味深かったのは、西山さんは奈良の魅力を感じるためには予備知識は必要ない、と書かれていることでした。
西山 仏像好きで、仏像の知識が豊富な人は、仏像の素晴らしさがわからなくなる場合があります。知識が目を曇らせるのでしょう。
名越 だとすると、本書で知識を得ると奈良のよさがわからなくなりませんか。
西山 ははは(笑)。そうなると困りますね。浄土宗を開いた法然上人は、亡くなる2日前に「勉強したことはすべて忘れ、南無阿弥陀仏と称となえればそれでいい」とおっしゃいました。私は知識を増やすことにはプラスマイナスの両面があると思っています。この本も、これで知識を増やしてほしいわけではなく、読み終えて「奈良っていいところだな」と思っていただけたらそれで十分です。個々のことはどんどん忘れて、新鮮な気持ちになって、奈良へ行きましょう。
名越 奈良の本当の魅力に興味を持ってくれる人が増えることを期待しています。
西山 ありがとうございます。名越さんもぜひ奈良にいらしてください。
ゲスト:西山厚(にしやま・あつし)奈良国立博物館名誉館員、東アジア仏教文化研究所代表、帝塚山大学客員教授、半蔵門ミュージアム名誉館長。徳島県鳴門市生まれの伊勢育ち。京都大学大学院文学研究科博士課程修了。奈良国立博物館で学芸部長として「女性と仏教」など数々の特別展を企画。奈良と仏教をメインテーマとして、人物に焦点を当てながら様々なメディアで活動を続ける。
聞き手:名越健郎(なごし・けんろう)拓殖大学特任教授。1953年岡山県生まれ。東京外国語大学ロシア語科卒業。時事通信社に入社。モスクワ支局長、ワシントン支局長、外信部長などを経て退職。拓殖大学海外事情研究所教授を経て現職。ロシアに精通し、ロシア政治ウオッチャーとして活躍する。著書に「秘密資金の戦後政党史」(新潮選書)、「独裁者プーチン」(文春新書)など。