甲斐・武田氏の戦略・戦術が示された軍学書「甲陽軍鑑」には「謙信秘蔵の侍大将のうち、甘粕近江守はかしら也」と記されている。あまりの戦上手に軍神・上杉謙信と間違われた武将、上杉四天王の一人である甘粕景持のことだ。
その出自は謎で、生年もよく分かっていない。諸説あるものの「本朝武功正伝」によれば、甲斐・信濃の国境にある白峰三山に住み、狩猟を生業としていた、いわば山の民だという。
徳川家康を輩出した松平氏も、元々はこの山の民だったといわれている。松平氏の発祥の地は三河西部の松平郷とされており、松平氏はその地で林業や狩猟、そして採鉱等を生業とする土豪だった。山の民がのちに武士となることは珍しくない。
当時、白峰三山の信濃側には、謙信と関係の深い小笠原氏の領地があった。謙信は小笠原氏から景持の存在を知らされ、自らの配下にスカウトしたらしい。
土豪には本来の武士の戦い方に関する固定概念はない。逆にそれが大きなメリットになり、敵方の度肝を抜く戦術、戦略を用いることができる。景持が戦上手と呼ばれるようになった大きな要因だろう。
景持が謙信に間違われたのは永禄4年(1561年)8月、川中島に出陣して甲斐の武田信玄と対峙した、第四次川中島の戦いでのことだ。
謙信は長野盆地南部にある妻女山に陣を敷いた。一方の信玄は、海津城に入った。動かない謙信と膠着状態に陥った信玄は、軍勢を本隊と別動隊に分け、別動隊に妻女山の上杉勢を攻撃させて平野に誘い込む、有名な「啄木鳥(キツツキ)戦法」をとった。
ところがこれを察知した謙信はひと足先に妻女山を下りていたため、別動隊が到着した時には、妻女山はもぬけの殻。この時、上杉勢の殿(しんがり)を務めたのが景持だった。その見事な戦いぶりに、武田軍では謙信自ら殿になったと勘違いした者が続出したという。
謙信の没後は上杉景勝に仕え、慶長9年6月26日(1604年7月22日)、米沢にて死去している。軍神・謙信に間違えられた武将は、他には存在しない。
(道嶋慶)