ロッテの監督・稲尾和久がベンチを飛び出した。向かったマウンドには先発の村田兆治が仁王立ちしていた─。
1985年4月14日、川崎球場でのロッテ対西武2回戦は、村田にとって右ヒジ手術からの復活を賭けた舞台だった。
西 0 0 0 0 0 0 0 2 0=2
ロ 0 0 0 0 0 3 1 2×=6
「マサカリ投法」からの真っすぐは威力があり、変化球が切れた。伝家の宝刀フォークが冴えた。7回まで西武打線を6安打に抑えて、0を重ねていた。
だが8回に入ると、右ヒジの感覚がおかしくなってきた。金森栄治、田尾安志に連続四球を与えて、無死一、二塁となった。
マウンドに駆け寄った稲尾は村田に言った。
「兆治、代わろう」
手術した医師からはこう告げられていた。
「100球以上投げてはいけない」
すでに限界点を越えていた。ところが、村田は首を横に振った。
「今日だけは投げさせてください」
この後、片平晋作にタイムリーを許すなど2点を失ったが、最後までマウンドを死守した。
155球目、スティーブ・オンティべロスをフォークで仕留めて、82年5月7日の日本ハム戦以来の勝ち星を挙げた。1073日ぶりの157勝目だった。
女房役の袴田英利がマウンドにダッシュした。村田が力強く抱き締めた。込み上げる熱い思いがあった。
「8回のピンチ以外は何を投げて、どうなったのかまったく覚えていない。未知の数字だった155球を投げて、1勝できたという喜びでいっぱいだ。心配してくれたファンに少しは恩返しができたと思う」
この日は日曜日だった。以降、5月26日まで日曜ごとに登板した村田は「サンデー兆治」と呼ばれて7連勝し、連勝記録を11まで伸ばした。この年17勝を挙げてカムバック賞を受賞した。
村田の右ヒジに激痛が走ったのは82年5月17日の近鉄戦(川崎)だった。先発していたが、1回に2点を失い降板した。4月に痛めていた。再発だった。
「ヒジが痛くて投げられない。最初に痛めた時より痛い。この感じではこの先、メドが立たない。自分の投手生命はこれで終わりかもしれない‥‥」
村田は67年のドラフトで福山電波工(現・近大福山高)から1位で入団した。
68年無勝利、69年は6勝、そして70年に5勝したが、伸び悩んでいた。
転機が訪れたのは翌71年、フォーム改造に着手した。豪速球を持ちながらも制球難に悩んでいたのだ。
右足に体重を乗せてタメを作り、そこから大きく前に移動する。左足を高く蹴り上げて一気に振り下ろす。そのダイナミックな姿は鉞マサカリを打ちおろす様子に似ていることから「マサカリ投法」と呼ばれた。
同年、初めて2ケタ勝利(12勝)を挙げて、エースの座に駆け上っていく。76年にはフォークを習得した。
右ヒジ痛を発症する前年の81年には、19勝を挙げている。どれほど落ち込んだことか。長く厳しい試練が始まった。翌83年、痛みはひどくなった。 多くの病院を駆けずり回ったが、どこの病院も「異常なし」の診断だった。あらゆる治療を試したが、良くならなかった。
村田は5月に和歌山県・白浜の十九渕というお水場を訪ねた。岩場で座禅を組んで、夜には白衣1枚で滝に打たれて水行をした。
精神の復活を求めた。1カ月滞在して帰京した。剣豪・宮本武蔵が書いた五輪書をむさぼるように読んだ。
村田と夫人の淑子は8月20日に渡米した。ドジャースの専属外科医・フランク・ジョーブの診断を受けるためである。痛みの原因が、右ヒジじん帯の異常だったことが判明したのだ。
精密検査の結果、ジョーブは言った。
「手術しよう。必ず治ります」
左手首の筋をヒジに向かって15センチ切って、それを右腕のヒジの関節に移植する。説明を聞くだけでめまいがするような手術である。「トミー・ジョン手術」だ。24日の午前7時に全身麻酔による手術は始まり、午前10時20分に終わった。
当時、日本球界では投手がヒジにメスを入れることはタブーだったが、現在では一般的だ。村田の復活で、有効な治療法として認識されたのだ。先駆者の役割を果たした、村田の大きな功績である。
右ヒジが真っすぐ伸びるまで3カ月、山なりのキャッチボールができるまで3カ月‥‥。
このまま1勝もしないで終わったら悔いが残る。
この一心で、苦しいリハビリを乗り越えていった。
84年終盤に復帰して5試合に登板できたが、あくまで、本格的な復活を目指した。翌年、それを現実にしたのだ。
最後の登板は90年10月13日、川崎球場での対西武最終戦だった。
西 0 0 0 0 0=0
ロ 0 0 4 0 0=4
5回降雨コールドとなったものの、10勝目を散発4安打の完封で挙げ、花道を飾った。40歳、49年の若林忠志以来、史上2人目の40歳台2ケタ勝利を達成した。プロ通算23年で215勝177敗33セーブの成績を残した。
この年、往時のスピードボールは精彩を欠き、また実績のない若手選手にもたびたび痛打を浴びた。
「まだ勝てる自信はある。だけどエースとしてマウンドに上がっている以上、引き際もある。6月にリリーフに回って、失敗した」
そして、続けた。
「やはり、完投できなくなったことが大きい。先発でいく以上、意地も執念もある」
村田を知る人は不器用で実直な男と声をそろえる。だからこそ復活を遂げることができたのだろう。
「マサカリ投法」はファンの心にいつまでも残っている。
(敬称略)
猪狩雷太(いかり・らいた)スポーツライター。スポーツ紙のプロ野球担当記者、デスクなどを通して約40年、取材と執筆に携わる。野球界の裏側を描いた著書あり。