徳大寺美瑠は、往時を懐かしむように言う。
「お店の制服はあるから、女の子たちはGパンとTシャツで来ればいい。出勤は自由だし、女の子たちは働くというより、遊びに来てお金をもらっている感覚。まだ10代の子も多かったし、それは楽しかったと思うわよ」
実際、風吹ジュンはこの店で20歳の誕生日を迎え、その日を最後に芸能界に羽ばたいてゆく。徳大寺は、芸能人養成を目指して店をオープンさせたわけではないが、客の熱意がそうさせたと言う。
「たまたまかわいい子が多くて、お客さんも『この子とお願いしたい!』って話になるの。もちろん、簡単に体を許す子たちではないから、そのうち業界のお客さんが『じゃあ、ウチの番組でアシスタントに』という形に変わっていって、それからタレントの登竜門と呼ばれるようになった」
狭い店だが、お客さん2人に女の子を5人つける態勢で客を楽しませた。たまにマナーが悪く、ママ特有の「関東破門状」という名の出入り禁止を言い渡されても、それでも客は店にやって来たという。
美瑠ママの“女の子を見抜く目”に加え、店には「日本一のスカウトマン」の名刺を持って銀座の街角に立つ飯田剛という名物男もいた。こうして「徳大寺」は、70年代の銀座を代表する名店に育っていった。
ただ、こうして芸能界に旅立った者の多くは、今となっては「なかったこと」として封印している。テレビで“架空の経歴”を目にすると、寂しい気持ちになると美瑠ママは述懐する。
奥澤によれば、名物ホステスの存在は、常に銀座の活性化と一体であった。例えば、作詞家・山口洋子がオーナーを務めた「クラブ姫」にいた大門節子は、梅宮辰夫との結婚・スピード離婚で知られるが、それだけではないと奥澤は言う。
「彼女が広島に行ったら、50人ものヤクザが膝を折って出迎えに来た─という逸話があります」
その大門と離婚した梅宮は、銀座で一時代を築いた「シルクロード」で働いていた外国人ホステスと再婚。梅宮アンナの母であるクラウディア夫人のことだ。
さらに大門もまた、離婚直後にキックボクシングのカリスマだった沢村忠と婚約して話題となるが、結婚までには至らなかった。
そんな昔話だけでなく、今なお、いいオンナを巡るバトルは健在であると奥澤は言う。
「何年か前に銀座から六本木に進出したオーナーは、あまりにも六本木の店から女の子を引き抜いたものだから、開店日に双方の街から60人もの黒服がにらみ合う異常事態になってたよ」
そしてここ数カ月、銀座には活況が戻り、まだまだ「街の熱」は冷めやらない。