前回は、昨年12月に韓国の尹錫悦大統領が突然発令した戒厳令の影に、それを大統領に進言した〝黒幕〟でもある金龍顕・国防部長(当時)を筆頭に、戒厳令の実行に参加した軍・警察・大統領警護処の高官たちの素性を明らかにした。前の政権に冷遇されたという共通項で結ばれていた男たちで、なんと尹大統領と高校の同窓生が多いという特徴もあった。
だが、実はその背後に、もう一つの人脈があった。国防部長と深く繫がる1人の退役軍人と、彼が軍内部に作っていた極右の秘密グループである。この退役軍人が、与党が大敗した昨年4月の総選挙への北朝鮮の工作を強く疑っており、同じく不正選挙を信じていた尹大統領とシンクロして、戒厳令への暴走を後押ししたようだ。なお、この不正選挙説は、もともと陰謀論系ユーチューバーが煽っていたもので、調査の結果で〝シロ〟とされた案件だが、それを大統領とその退役軍人は認めたくなかったのである。
その男は、戒厳令前に国防部長とほぼ毎日のように会合し、戒厳令時の準備を進めていたともいう。いわば〝黒幕中の黒幕〟のようなその人物は、韓国軍の情報活動を統括する国防情報本部の実働部隊「情報司令部」の盧相元元司令官。情報司令部は対北朝鮮情報工作を担当しており、特に密かに北朝鮮に潜入する北派工作員部隊「HID」を運用している特殊な機関だ。
盧相元は62年生まれ。陸軍士官学校で金龍顕・国防部長の3年後輩になる。警備大隊長、偵察大隊長、師団司令部情報参謀など情報畑が長く、国家情報院出向や青瓦台出向などの経歴もある。朴槿恵政権時に大統領警護室に出向し、その後、情報司令部の司令官になった。しかし、18年に部下の女性にセクハラをして逮捕・起訴され有罪。少将で退役している。
彼は軍や出向先で対北朝鮮工作に携わったことから、軍内や政官界の極右人脈にパイプがあり、退役後も軍内に影響力を保持した。その一方では、ある占い師に傾倒し、何かと星占いを持ち出す変人でもあったようだ。性格は激しいとの証言が多い。情報司令部での元部下が韓国メディアに語ったエピソードには「実行はされなかったが、北朝鮮に潜入させたHID隊員の任務が終わったら、爆弾を密かに仕込んだ衣服を使って爆殺してしまえ」と言い放ったこともあったという。
今回の戒厳令では事前に、前述したように旧知の国防部長と会っていたほか、ソウル市内のロッテリアで仲間たちと謀議していたことも判明している。国会制圧、野党議員逮捕、選管委事務所制圧のほかに、北朝鮮の軍事行動を誘発する計画も具体的に打ち合わせされた。実際、戒厳令時には情報司令部を使って選管委庁舎を襲撃させたほか、北朝鮮軍誘導工作として騒擾事件を起こすために〝私服の現役HID隊員を市内に待機〟させてもいたという。12月18日、盧相元は内乱参加容疑で逮捕され、起訴されている。戒厳令の日付を星占いで進言したとか、自分が選管委幹部を拷問するためにバットなどを準備していたなど、不確かな情報がいくつも報じられているが、内乱罪を裁く今後の刑事裁判で明らかになっていくだろう。
なお、戒厳令に向けた〝ロッテリア謀議〟は何度かあったが、現役の大物も参加していた。盧相元の後に情報司令部の司令官になった文相皓だ。彼も情報畑の出身で、偵察大隊長、地上作戦司令部情報部長、大統領警護室出向を経て情報司令官に就任している。彼は戒厳令時に、情報司令部の隊員たちに選管委制圧を命じている。
さらに盧相元が率いる秘密グループ人脈ではもう1人、逮捕・起訴された退役軍人がいる。元第3野戦軍司令部憲兵隊長で元国防部調査本部調査課長の金容君予備役大佐である。彼は13年の軍内不祥事を隠蔽した罪で、18年に逮捕・起訴されて有罪となり退役した人物だが、盧相元の側近で、そのグループの世話役的な存在だ。ロッテリア謀議にも参加しており、戒厳令後は選管委を制圧して調査する即席のチームを戒厳司令部捜査本部「第2捜査班」と名付けて、裏で取り仕切る計画になっていた。やはり12月18日に逮捕されている。
なお、この幻に終わった第2捜査班は、現役将官2人が班長・副班長を務める計画だった。班長は具三会第2機甲旅団長(准将)、副班長は方正煥国防部作戦移行任務部隊長(准将)である。具三会は歩兵部隊の作戦畑の軍人で、首都防衛軍参謀長、地上作戦司令部作戦部長を歴任。方正煥も歩兵部隊の作戦畑で、歩兵連隊長、国防部政策企画審議官などを歴任している。
戒厳令に先立って前出の文相皓情報司令官は、選管委庁舎制圧のために情報司令部隊員を付近に待機させた。また、盧相元の指示で、第2捜査班の本隊はソウル南方の城南市にある情報司令部第100旅団司令部で編成された。同旅団司令部には現役将官である文相皓情報司令官、具三会准将、方正煥准将が密かに集結。さらに情報司令部の現役将校であるキム・ボンギュ大佐とチョン・ソンウク大佐が第2捜査班の編成を仕切り、裏の事情を知らない情報司令部特殊工作隊員ら屈強な38人が集められた。この具三会、方正煥、キム・ボンギュ、チョン・ソンウクは、いずれも盧相元の秘密グループのメンバーで、ロッテリア謀議の参加者である。
戒厳令の発令と同時に、選管委近くの待機組は選管委を襲撃した。彼らの計画では続いて第2捜査班が選管委幹部らを逮捕することになっていたが、行動前に戒厳令が撤回されたため不発に終わった。
こうしてみると、もともと情報畑出身の癖の強い1人の退役軍人を中心とする少人数の秘密グループが存在し、それが軍のトップと繫がり、大統領の暴発を支えたという構図になっていることがわかる。陰謀集団としては規模が小さいために結果的には大きなことは出来ていないが、北朝鮮の攻撃を誘う工作まで企図していたというのだから恐れ入る。もしも戒厳令が解除されていなければ、彼らはどこまで暴発していたか計り知れない。
黒井文太郎(くろい・ぶんたろう)1963年福島県生まれ。大学卒業後、講談社、月刊「軍事研究」特約記者、「ワールドインテリジェンス」編集長を経て軍事ジャーナリストに。近著は「工作・謀略の国際政治」(ワニブックス)